文献案内

芸術学を学ぶ人のための文献案内

 芸術学(Kunstwissenschaft)という学問は狭義には造形芸術の研究を意味しますが、より広義には「芸術一般の理論的研究、そしてまた美術史学、文芸学、音楽学、演劇学、映像学等の諸特殊芸術の研究を包括」するものです(『芸術学ハンドブック』i)。当研究室の英名がAesthetics and Art Theory であることから分かるように、これに美学も含まれているわけで、芸術学をその外縁から把握しようとすることは難しいと言えるでしょう。

 したがって、この文献案内ではいくつかのカテゴリーにもとづいて、それぞれ基礎文献と応用文献を挙げていきたいと思います。基礎文献はその分野に関心があり、学部生から大学院受験者くらいの学習者を想定しています。応用文献は各分野を専門とする大学院生が、あるていど自身の研究に引きつけ選んでいます。どの分野もそれ自体の歴史の厚みと研究の蓄積があるものなので、このリストは網羅性よりはミニマムな入り口としての役割を果たすよう意図しました。この文献案内が学びの手がかりとなることを願っています。


美学(観光美学)

基礎文献

  • 佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年
  • 岩城見一『感性論――エステティックス 開かれた経験のために』昭和堂、2001年
  • 小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会、2009年
  • 中井正一『美学入門』中公文庫、2010年
  • 望月登美子『エステティカ―やさしい美学』文化出版局、1985年

応用文献

  • 津上英輔『あじわいの構造 感性化時代の美学』春秋社、2010年
  • ジョン・アーリ、ヨーナス・ラースン『観光のまなざし〔増補改訂版〕』加太宏邦訳、法政大学出版局、2014年
  • ジョン・バージャー『イメージ 視覚とメディア』伊藤俊治訳、PARCO出版、1986年
  • 久保田晃弘、きりとりめでる共訳・編著『インスタグラムと現代視覚文化論』ビー・エヌ・エヌ新社、2018年
  • レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』東辻賢治郎訳、左右社、2017年


津上英輔『あじわいの構造 感性化時代の美学』

 「現代は感性の時代といわれている」という文からはじまる本書は、私たちの身近な現象を感性の問題として捉えることでよりよく考察できるとしている。そのなかには「観光」の項目も含まれている。津上は、カントの『判断力批判』を参照しながら、快(美)の追求行為と観光において美しいものと出会うこととを並置している。すなわち、「観光そのものが本質的に感性の営為であり、したがって美学の問題である(148頁)」としているのである。身近な美学の問題に触れるのに初歩的な一冊だといえる。

ジョン・アーリ、ヨーナス・ラースン『観光のまなざし〔増補改訂版〕』

 観光者の「まなざし」(視覚経験)に注目しながら観光行為を理論的に紐解いている。例えば、観光者のものの見方は純粋に無垢な目による見方ではなく、社会的に構成され制度化されたものとして、ミシェル・フーコーの「医学のまなざし」を援用しながらその性質が考察されている。よって本書は観光に関する考察の応用可能性を示すと同時に、視覚論において観光者のまなざしに焦点を当てることの重要性を提唱しているといえる。

ジョン・バージャー『イメージ 視覚とメディア』

 本書は、「ものを見る」ことに焦点を当てた視覚文化論の入門書である。バージャーによれば、私たちの見ているものと知っているものとの間にある関係性は不安定であるという前提のもと、ものの見方が選択行為であると述べられている。バージャーは、見る者が何を知っているのか、信じているのかによって私たちの目に飛び込んでくる対象が異なっていることに注目し、著書の中でものの見方を構成する無数のイメージについて再検討している。(ジョン・アーリ『観光のまなざし』もバージャーの視覚論に依拠している。)

久保田晃弘、きりとりめでる共訳・編著『インスタグラムと現代視覚文化論』

 コンピュータによる膨大なインスタグラム写真解析から、それらを3つの種類に分類するなど、インスタグラムを美学的な視点から分析している。マノヴィッチによれば、「インスタグラムは美的な視覚コミュニケーションのためのメディウム(50頁)」であり、陳腐でつまらないものだと見なされかねないインスタグラムの写真文化に新たな価値観を見出そうと試みている。マノヴィッチのインスタグラム論は、美的な写真イメージとしてのインスタグラム写真の地位を確立するものであるといえる。

レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』

歩行は、観光経験(例えば「まちあるき」など)において、訪れた場所をより深く理解する手段として用いられている。本書において、レベッカ・ソルニットは「歩くことは世界のなかに居るだけでなく、世界をつくりだすひとつの方法なのだ(53頁)」としており、歩くことで触発される知覚などといった身体経験を通じて世界を知ることの意味を問うている。

林玲穂


分析美学

まえおき

分析美学の文献案内に関してはすでに優れた文献リストが存在する。まず、森功次による「分析美学を学ぶ人のために 邦語文献リーディングリスト」(リンク先PDF)、そして書籍リスト「分析美学は加速する」をつよく勧める。

いずれも網羅性は十分だが、どこからはじめるべきか悩むかもしれない。そこで、以下では、わたしのごく個人的なおすすめを紹介する。

基礎文献

  • 総説・入門(1):ロバート・ステッカー『分析美学入門』森功次訳、勁草書房、2013年
  • 入門(2):西村清和『現代アートの哲学』産業図書、1995年
  • フィクション論入門:清塚邦彦『フィクションの哲学[改訂版]』勁草書房、2017年
  • 自然化と音楽美学:源河享『悲しい曲はなぜ悲しいのか––––音楽美学と心の哲学』慶應義塾出版、2019年
  • 個別分野との接続:松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾出版、2018年

入門にはステッカー(2013)を自信をもって勧めるが分量は多い。コンパクトな西村(1995)から入るのもよい。ステッカーを読みつつ、以下三つを興味をもったはしから読むとよい。フィクション論については清塚(2017)がよくまとまっている。源河(2019)は分析哲学における心/知覚の哲学と美学の両方の手引きとしても優れており、松永(2018)はビデオゲーム研究との接続がみられる優れた研究書である。いずれも分析美学の議論にふれる最初の一冊としてお勧めできる。ステッカー本が概説を提供してくれているので、以上の三冊のように実際に「分析美学している」研究書を読むのがもっともよい入門のしかたのひとつである。

応用文献

  • ノエル・キャロル『批評について––––芸術批評の哲学』森功次訳、勁草書房、2017年
  • ネルソン・グッドマン『芸術の言語』戸澤義夫・松永伸司、慶應義塾出版、2017年
  • ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か––––ごっこ遊びと芸術』田村均訳、名古屋大学出版、2016年
  • 西村清和編『分析美学基本論文集』勁草書房、2015年
  • 草野原々『大絶滅恐竜タイムウォーズ』早川書房、2019年

 分析美学はおおむね論文ベースで議論が進むため、最新の議論にふれたいなら、大学(院)生であれば、British Journal of AestheticsJournal of Aesthetics and Art Criticismといった研究雑誌の気になるトピックをすきに読みはじめるのがよい。

ここではまず既に重要な文献となっている/重要文献を収録している四冊を紹介する。批評の哲学についてはキャロル(2017)が読みやすく議論の手法も含めて学びが多い。グッドマン(2017)とウォルトン(2016)の議論は量かつまたは質的にへヴィである。だが読めば驚くほど芸術と表現への見方が変わる。似ていない双子のような魅力的な書たちである。どちらもはじめに登るべき山ではなく、新しめの引用論文を読んでからでも遅くはない。加えて、既に古典となっている論考を含む論文集として西村編(2015)がある。いきなり読むにはハードだが、すでに入門をすませたならその味わいがわかるだろう。その他紹介すべき本は大量にあるが、最後にごく個人的に勧めたい本を。

作家、草野原々による、分析美学の概念が物語のエンジンとなり、独特な思想を形成するに至っている作品。物語の強烈な価値はさることながら、分析美学において生まれた概念が物語を支えるアイデアになりさえする好例としても一読をお勧めする(わたしは巻末解説および分析美学者として微力ながら制作協力を行なっている)。研究と同時にそれが創作実践と関わりうる可能性を含め、分析美学という研究ジャンルのひろがりを味わっていただければうれしい。

分析美学を学び役立ててゆくひとがふえることをたのしみにしています。いっしょに美学をしましょう。

難波優輝


アニメーション

基礎文献

  • 細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』新潮社、2013年
  • レナード・マルティン『マウス・アンド・マジック アメリカアニメーション全史』(上)(下)、権藤俊司監訳、楽工社、2010年
  • 須川亜紀子、米村みゆき編『アニメーション文化 55のキーワード』ミネルヴァ書房、2019年
  • 高瀬康司編『アニメ制作者たちの方法 21世紀のアニメ表現論入門』フィルムアート社、2019年
  • 津堅信之『新版 アニメーション学入門』平凡社、2017年

応用文献

  • Karen Beckman (ed.), Animating Film Theory, Durham: Duke University Press, 2014
  • フランク・トーマス、オーリー・ジョンストン『ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法』スタジオジブリ、2002年
  • 土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション』フィルムアート社、2016年
  • トーマス・ラマール『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』藤木秀朗監訳、名古屋大学出版会、2013年
  • J. P. Telotte, Animating Space: From Mickey to WALL-E, Kentucky: The University Press of Kentucky, 2010

 アニメーションを研究するアプローチは複数あり、いずれにおいても相当な数の文献が存在している。それらの多くは、『マンガ・アニメーション研究マッピング・プロジェクト報告書』に網羅されており、本報告書がアニメーション研究の格好の手引きとなるだろう。とはいえ、アプローチを定めアタックをはじめる前に、山の全体図を俯瞰するのも悪くない。以下では特定のアプローチを定めるのではなく、広がりつつある裾野を俯瞰する、言い換えれば、アニメーション研究がもつ射程の広さが実感できる文献を紹介しよう。

 アニメーションを「動く映像」とみなすなら、「映画」との近接性は疑いようがない。とりわけ、近年のポストプロダクションにおける映像加工が重視され映画は、ますます近しい存在のように思われる。デジタル映像の特性をふまえ、こうした視点を遡及的に見出すレフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』は、手書きと実写という対立項を軽々と乗り越え、アニメーションの領域を拡張してくれる。マノヴィッチの名高い主張がもはやクリシェと化した感さえあるいま、アニメーション研究は映画理論を借用するどころか、映像の「中心」にふたたび生気を与えるだろう。Karen Beckman ed., Animating Film Theory に収められた各論文からは、映像文化の「周縁」が秘めるポテンシャルを味わうことができる。

 他方で、運動を生み出す実践として「アニメーション」に注目するとき、アニメーションは映画とは異なる軌道をとりはじめる。フランク・トーマス、オーリー・ジョンストン『ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法』は、きわめてテクニカルな視点ながら、生命が生み出される様子をありありと伝えてくれる。こうした技術はディズニーのような巨大プロダクションに限られたものではなく、むしろ、個人的な制作にその特徴がいっそう強く現れるだろう。土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション』は、コマのあいだを描くアニメーションが世界と織りなす関係を浮かび上がらせ、アニメーション研究に新たな視座をもたらしている――現在のアニメーションの生態系を俯瞰し、わたし/たちの現れをみる『21世紀のアニメーションがわかる本』とあわせて読まれたい。そしてもちろん、運動について知るには、日本のアニメの「特異な」運動性を論じる大著、トーマス・ラマール『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』は欠かせない。アニメーションの空間の変容を論じ、アニメーションの/とモダニティに挑む野心的な著作、J. P. Telotte, Animating Space: From Mickey to WALL-E と比較しながら読むのも面白いだろう。

大﨑智史


マンガ

基礎文献

  • 『マンガの読み方』、宝島社、1995年
  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』、星海社新書、2014年
  • 大塚英志『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』、法蔵館、1994年
  • 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』、ちくま学芸文庫、1995年
  • 四方田犬彦『漫画原論』、ちくま学芸文庫、1999年

映画

基礎文献

  • 岩本憲児、波多野哲朗編『映画理論集成 古典理論から記号学の成立へ』フィルム・アート社、1982年
  • 岩本憲児、武田潔、斉藤綾子編『「新」映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』(1998)、『「新」映画理論集成② 知覚/表象/読解』(1999)、フィルム・アート社
  • 長谷正人、中村秀之編訳『アンチ・スペクタクル——沸騰する映像文化の考古学〈アルケオロジー〉』、東京大学出版会、2003年
  • デイヴィッド・ボードウェル、クリスティン・トンプソン『フィルム・アート——映画芸術入門』、藤木秀朗監訳、飯岡詩朗、板倉史明、北野圭介、北村洋、笹川慶子訳、名古屋大学出版会、2007年
  • トマス・エルセサー、ウォーレン・バックランド『現代アメリカ映画研究入門』水島和則訳、書肆心水、2014年

応用文献1

  • エラ・ショハット、ロバート・スタム『支配と抵抗の映像文化 西洋中心主義と他者を考える』(早尾貴紀監訳、内田(蓼沼)理絵子、片岡恵美訳、法政大学出版局、2019年
  • Gerald Sim, The Subject of Film and Race: Retheorizing Politics, Ideology, and Cinema, New York: Bloomsbury, 2014
  • Jacqueline Najuma Stewart, Migrating to the Movies: Cinema and Black Urban Modernity, Berkeley, Los Angeles, London: University of California Press, 2005
  • 御園生涼子『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』(東京大学出版会、2012年)
  • Alice Maurice, Cinema and its shadows: Race and Technology in Early Cinema, Minneapolis, London: University of Minnesota Press, 2013

 ここでは、映画において人種・民族に関する問題がどのように論じられてきたかを知るために参考になる研究書を紹介します。まず、人種・民族の観点から映画をテクスト分析する入り口として、エラ・ショハットとロバート・スタムの『支配と抵抗の映像文化 西洋中心主義と他者を考える』(2019)を挙げておきます。映画における民族・人種の研究を長らく牽引してきた両者によって著された本書の特長は、多文化主義の観点から非西洋圏の映画作品を広範に論じていることにあります。とくに、主流とされる西洋中心の文化コードにたいして、かつての被植民地国で製作された映画がいかにして抵抗の実践をおこなってきたかについて論じた第八章「抵抗の美学」は本書の白眉といえるでしょう。また、「植民地主義」や「異種混淆性」などの基本的な用語が丁寧に解説されている点においても、この分野の格好の入門書になっています。つぎに、映画研究における人種・民族に関する議論の理論的な変遷については、ジェラルド・シムのThe Subject of Film and Race: Retheorizing Politics, Ideology, and Cinema(2014)が参考になります。本書は、映画のなかの類型的な人種イメージを批判する人種的ステレオタイプの研究を第一世代(一九四〇〜一九七〇年代)とし、一九八〇年代からのポスト構造主義、ポスト・コロニアリズムの流れ汲んだ研究を第二世代として、どのような社会背景のもとでこれらの研究が生まれては、理論的な乗り越えがなされてきたかについて充実した見取り図を示してくれています。また、映画の受容の側面として、黒人の観客性に着目した研究にJ・N・スチュワートのMigrating to the Movies: Cinema and Black Urban Modernity(2005)があります。本書では、主に一九一〇年代までのアメリカで都市に移住していった黒人たちが映画内で表象される黒人をどのように受容していたのかが、当時の豊富な資料とともに議論されています。さいごに、この分野での近年の研究成果として御園生涼子『映画と国民国家 1930年代松竹メロドラマ映画』(2012)とアリス・モーリスCinema and its shadows: Race and Technology in Early Cinema(2013)の二冊を挙げておきます。前者の著作では、「越境性」をキータームとして、文化・資本の流動化が急速に進んだ一九三〇年代の日本において、当時製作された松竹メロドラマがいかに「大衆」から「国民」への転換を体現するものだったかについて論じています。後者の著作は、アメリカの初期映画における人種イメージをテクノロジーの観点から論じたものですが、近年進んでいる映画メディウムの問い直しという問題系のなかに人種の観点を引き入れているという点で、この分野での最新の動向を伺うことができます。

西橋卓也


応用文献2

  • 木下千花『溝口健二論——映画の美学と政治学』法政大学出版局、2016年
  • 『躍動する東南アジア映画——多文化・越境・連帯』石坂健治、夏目深雪編、論創社、2019年
  • 藤木秀朗『映画観客とは何者か——メディアと社会主体の近現代史』名古屋大学出版会、2019年
  • Ji-hoon Kim, Between Film, Video, and the Digital: Hybrid Moving Images in the Post-media Age, New York: Bloomsbury, 2016
  • 夏目深雪、金子遊編『アピチャッポン・ウィーラセタクン:光と記憶のアーティスト』フィルムアート社、2016年

 筆者はタイの映像作家アピチャッポン・ウィーラセタクンを専門に研究しています。ここでは広く映像研究のトピックを扱いますが、とりわけ筆者がアピチャッポンというひとりの作家を研究するさいに有益だった書籍を簡単に紹介します。映像作家ひとりを中心に論じる場合にも、さまざまなアプローチが必要です。まず、映像作品のテクスト分析的アプローチであれば、木下千花『溝口健二論——映画の美学と政治学』(法政大学出版局、2016年)が参考になります。ただし本書の緻密な映像テクストの分析は、検閲やナショナリズムの影響、ジェンダー論からメディア論を横断してゆくという分析方法のヴァリエーションのひとつでしかありません。映像作品のテクスト分析的アプローチだけで個々の映像作家を議論するのは不十分であり、本書の多角的で学際的な分析が方法論としてやはり有益であることがよくわかります。

 つぎに、映像作家をある固有の地域・文化・歴史から分析するアプローチです。国家やその政治との関わり、生まれ育った土地や地域の伝統や文化が映像作家といかに関係するかという諸々のコンテクストを把握することは肝要です。『躍動する東南アジア映画——多文化・越境・連帯』(石坂健治、夏目深雪編、論創社、2019年)は、東南アジアで映像作品を作り続ける作家たちがいかなる政治的・地域的文脈と絡み合っているかが理解できます。

また、メディア論的アプローチもあります。映像作家の諸作品がどういった場所で上映・展示されるか、それらがどのように伝播され受容されるかという観点はとくに重要です。藤木秀朗『映画観客とは何者か——メディアと社会主体の近現代史』はこうした観点を「観客」の側面から理論的に論じた大著です。そしてキム・ジフンによる著作(Ji-hoon Kim, Between Film, Video, and the Digital: Hybrid Moving Images in the Post-media Age, New York: Bloomsbury, 2016)は、デジタル技術の進歩やポスト・メディア的状況が進む昨今において、映画やヴィデオ・インスタレーションといった表現形態の境目さえも溶解し、映画館やギャラリーという展示状況が変容する状況を詳細に論じたものです。

 さいごに手前味噌となりますが、筆者も大いに携わった著作を紹介して終わります。夏目深雪、金子遊編『アピチャッポン・ウィーラセタクン:光と記憶のアーティスト』(フィルムアート社、2016年)は、ひとりの映像作家についてこれほどまでに多様なトピックが立ち、研究者や批評家ごとにまったく異なる切り口で議論されていることに驚くかと思います。個々の批評だけでなく、アピチャッポンにかんするデータもたいへん充実していますので、まずはご自身の関心ある作家について書かれた信頼できる著作からデータを収集することはやはり大事でしょう。

中村紀彦


演劇・パフォーマンス

基礎文献

  • 佐和田敬司+藤井慎太郎+冬木ひろみ+丸本隆+八木斉子(編)『演劇学のキーワーズ』ぺりかん社、2007年
  • クリスティアン・ビエ+クリストフ・トリオー『演劇学の教科書』佐伯隆幸日本語版監修、国書刊行会、2009年
  • 高橋雄一郎+鈴木健(編)『パフォーマンス研究のキーワード:批判的カルチュラル・スタディーズ入門』世界思想社、2011年
  • エリカ・フィッシャー=リヒテ『演劇学へのいざない——研究の基礎』山下純照+石田雄一+高橋慎也+新沼智之訳、国書刊行会、2013年
  • アリストテレス『詩学』三浦洋訳、光文社、2019年

応用文献

  • 山下純照+西洋比較演劇研究会編『西洋演劇論アンソロジー』月曜社、2019年
  • ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』谷川道子+新野守広+本田雅也+三輪玲子+四ツ谷亮子+平田栄一朗訳、同学社、2002年
  • ローズリー・ゴールドバーグ『パフォーマンス——未来派から現代まで』中原佑介訳、リブロポート、1982年
  • エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭+平田栄一朗+寺尾格+三輪玲子+四ツ谷亮子+萩原健訳、論創社、2009年
  • アントナン・アルトー『演劇とその分身』鈴木創士訳、河出書房新社、2019年

 昨今パフォーマンスのひろがりによって、演劇は上演を最も重要とする舞台芸術と見なされています。そのため演劇研究においても、従来中心とされていた戯曲や演劇史だけではなく、上演に焦点が当てられるようになりました。ここに挙げた5冊は、そのような現在の演劇・パフォーマンスの、とりわけ上演を考えるにあたって読まれるべき書籍です。

 2019年に日本で刊行された山下純照+西洋比較演劇研究会(編)『西洋演劇論アンソロジー』は、古典から20世紀のパフォーマンスまで70人の演劇論の解説・原典訳によって構成された西洋演劇のアーカイヴであり、今日に至るまでの演劇・パフォーマンスの議論を包括的に知ることが出来ます。同書には登場していませんが、伝統的なドラマによる演劇に対し、様々な要素が自律し上演を構成するものとして現在の演劇を捉えたハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』は、今そしてこれからの演劇を考えるための必読書と言えます。

一方でとりわけパフォーマンスに関しては、20世紀初頭から90年代後半にかけての体系的な歴史をローズリー・ゴールドバーグ『パフォーマンス——未来派から現代まで』で知ることが出来ます。本書は演劇やダンスといった所謂舞台美術だけではなく、ハプニング・イベントなどすべての身体表現を「パフォーマンス」と総括したうえで、その系譜を概観しています。またこのような「パフォーマンス」を研究する際の包括的な理論はエリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』において展開されており、同書も重要な文献のひとつとして挙げられます。

 最後に、アントナン・アルトー『演劇とその分身』を挙げます。アルトーは20世紀にフランス・パリで活躍した演劇人であり、筆者は彼の作品について考えることから研究を始めました。戯曲や物語ではなく上演に演劇の真価を求める彼の演劇論は、その後の演劇ならびにパフォーマンスに大きな影響を与えました。上述した書籍にも彼の名前は度々登場しています。

吉水佑奈


現代美術

基礎文献

  • シルヴァン・バーネット『美術を書く』竹内順一訳、東京美術、2014年
  • 若桑みどり『イメージの歴史』ちくま学芸文庫、2012年
  • 『現代アート事典 モダンからコンテンポラリーまで』美術出版社、2009年
  • 若桑みどり『イメージを読む 美術史入門』ちくま学芸文庫、2005年
  • 「アートワード(現代美術用語辞典ver.2.0)」『artscape』(https://artscape.jp/artword/index.php)、最終アクセス2020年3月1日

応用文献

  • 牧陽一『中国現代アート 自由を希求する表現』講談社、2007年
  • 牧陽一編『艾未未読本』集広舎、2012年
  • 松井みどり『アート:“芸術”が終わった後の“アート”』 朝日出版社、2002年
  • 蔡國強《CAIGUO-QIANG,Floar Commedia CaiGuo-Qiang at the uffz》江西美術出版社, 2019

牧陽一『中国現代アート 自由を希求する表現』

 私は中国現代アートを研究テーマにしているので、この本を入門書として使った。20世紀に入った後のアート世界の現状を筆者(日本人)は北京に留学することをきっかけに見るようになり、中国人の私から見ても、かなり客観的な口調で中国現代アートの歴史を語っている。90年代は中国現代アートの発展に対して非常に重要な段階であり、その歴史が本の中でていねいにたどられ、限られた文章で簡潔にまとめられている。入門書として読みやすくてオススメ。

牧陽一編『艾未未読本』

 この本は、『中国現代アート 自由を希求する表現』の補充として読みがいがあるのではないかと思う。内容は中国の現代アーティスト艾未未にファーカスしている。艾未未は中国現代アートを語るさい無視できない、非常に影響力を持っている芸術家として今でも活躍している。彼の作品と個人的経歴を解剖することによって、中国現代アートの現状が明らかになる。中国現代アートの歴史を大雑把に把握した後、細かく見ていきたいならばぜひ読んでみてください。

松井みどり『アート:“芸術”が終わった後の“アート”』

 特に西洋における現代アートの発展を語る本。モダンから出発して、いわゆる「芸術の終焉」後の芸術を細かく分析している。分厚い本ではないが、言及された作品や作者、芸術のカテゴリーが豊富で、歴史や文化背景を知りたい人に対して入門書として使いやすいし、筆者の分析から新たなビジョンを得ることも可能ではないか。

蔡國強《CAIGUO-QIANG,Floar Commedia CaiGuo-Qiang at the uffz》

 中国現代アーティスト蔡國強を中心に紹介している図鑑である。蔡國強は中国現代アートをリードしている実験装置の芸術家として、現在でも国際的に活躍し、評価されている。この本はかなり個人的なオススメになる。中国で出版されたもので、日本語と英語バージョンはないが、蔡國強の花火作品が質良くブリントされているので、作品を鑑賞しようと思う方、ぜひ一度読んでみたほうが良いと思う。

張暁芸


文芸

基礎文献

  • ロラン・バルト『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年。「作者の死」を含む
  • 柄谷行人『定本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫、2008年。初刊は1980年
  • エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』板垣雄三、杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社、1986年。原著は1978年
  • 私小説研究会編『私小説ハンドブック』秋山駿、勝又浩監修、勉誠出版、2014年
  • 扱っている言語・文学・ジャンルに関する辞書、辞典(『国語便覧』や『大辞林』に類似するもの)

応用文献

  • 笹沼俊暁『リービ英雄:〈鄙〉の言葉としての日本語』論創社、2011年
  • 西成彦『バイリンガルな夢と憂鬱』人文書院、2014年
  • 加藤周一『日本文学史序説 上・下』筑摩書房、1975、1980年
  • モナ・ベイカー、ガブリエラ・サルダーニャ編『翻訳研究のキーワード』藤濤文子監修、編訳、伊原紀子、田辺希久子訳、研究社、2013年
  • ハルオ・シラネ編『越境する日本文学研究 カノン形成・ジェンダー・メディア』勉誠出版、2009年

 ロラン・バルト「作者の死」(La mort de l’auteur, 1968)、エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』(Orientalism, 1978)、ミシェル・フーコーの諸著作は、文学作品とより広い社会制度を支えている権威をその根底から問うことによって、以後の文学研究に決定的な影響を及ぼしてきた。これらの著作が早い段階で積極的に翻訳、受容された日本においては特にそれが言えるだろう。その観点から最初に強く推薦したいのは次の二つの著作である。

 ①笹沼俊暁『リービ英雄:〈鄙〉の言葉としての日本語』(論創社、2011年)

 ②西成彦『バイリンガルな夢と憂鬱』(人文書院、2014年)

 笹沼の著作は1987年に「星条旗の聞こえない部屋」という作品をもって小説家デビューを果たしたリービ英雄の文学をめぐる評論であるが、著者が自らの固有の条件(台湾の大学で日本語と日本文学を教えている日本人教師)を明記し、常にその立脚点から現代における日本語による創作の評価基準を問おうとしていることに特色がある。日本語で研究を行う意味を考えさせてくれる、問題含みの問題提起の書。

 西の著作は、評論ではなく、研究書である。日本統治下の台湾や戦後日本における在日朝鮮人・韓国人の日本語作品における多言語描写とその認識が主な対象である。「小説の単一言語使用」という制度的な問題を問う中、文面だけからは読み取れない言語的状況や力学を汲み取ろうとする方法論は、一見「単一の言語」のみで完結しているように見える作品を考える際にも参考になる。

 ③加藤周一『日本文学史序説 上・下』(筑摩書房、1975、1980年)

「グローバル化」の現代は言うまでもなく、20世紀以前に活躍していた作家でも、その創作活動や作品受容を一つの「国民文学」に即して考えることの限界が次第に意識されてきている。それでも(あるいはだからこそ)「主要な文学」の概観的な歴史書を一冊読むことをお勧めしたい。「世界」を意識したコスモポリタンな姿勢で日本文学の通史を試みた加藤の著作はそうした優れた一例である。

 ④モナ・ベイカー、ガブリエラ・サルダーニャ編『翻訳研究のキーワード』(藤濤文子監修、編訳、伊原紀子、田辺希久子訳、研究社、2013年)

 ⑤ハルオ・シラネ編『越境する日本文学研究 カノン形成・ジェンダー・メディア』(勉誠出版、2009年)

 「文」(芸)を考える際、程度の差こそあれ、「翻訳」は現実的な問題として立ち現れることが多い。『翻訳研究のキーワード』は、1990年代以降の英語による活発な「翻訳研究」の発展を捉えるべく、元々英語で著された事典を日本語の読者向けに再編されたものである。『越境する日本文学研究』は、日本国内外の日本文学研究者によるバイリンガル形式の論文集である。両書は、自らの翻訳姿勢を反省するきっかけになることはもちろん、これから益々課題となってくる言語間や国境を越えた研究態度を模索する中で参考になると思われる。

トーマス・ブルック Thomas Brook