ポスター制作 難波優輝
概要
日時:2019年12月7日(土)13:00-17:30(聴講無料・予約不要)
場所:神戸大学文学部 C棟5階大会議室【会場案内】
登壇者:難波優輝(神戸大学大学院博士課程前期課程)
トーマス・ブルック(神戸大学大学院博士課程後期課程)
千葉雅也(立命館大学大学院先端総合研究科)
矢倉喬士(西南学院大学言語教育センター)
司会:居村匠(神戸大学大学院博士課程後期課程)
コメンテーター:大橋完太郎(神戸大学大学院人文学研究科)
主催:神戸大学芸術学研究室
科学研究費補助金基盤(C)「ポスト・ノスタルジー美学の成立と構造」研究課題番号:19K00132 研究代表者:大橋完太郎
主旨
事実よりもイデオロギーや信念が優先されるような、「ポストトゥルース」と呼ばれる状況となってひさしい。言うまでもなく、私たちが自らを形づくるのは真実のみによってではない。虚構、想像的なもの、フィクションもまた私たちを満たしている。つまり、真理の価値が問われる時代とは、その対応物としてのフィクションの価値が問われる時代にも他ならない。このような状況において、単にそれを批判し「真実」へと回帰することは、広義のフィクションとしての芸術をも否定するものである。真実の影でも虚偽への居直りでもない、フィクションの地位はありうるだろうか。それはとりもなおさず、現代の私たちにとっての芸術の、あるいは芸術を研究することの意味を考えることでもある。このような問いを背景に、今年度の神戸大学芸術学研究会はフィクションの力、作用、権力を考えたい。
プログラム
13:00- 開会挨拶
13:10- 発表1
難波優輝「制作するフィクション」
トーマス・ブルック
「水村美苗における「文学の真理」と「小説がもちうる『真実の力』」:作品の英訳を通して考える」
14:30- 休憩
14:45- 発表2
千葉雅也「解釈と詐欺」
矢倉喬士「意識の疲れ──2010年代アメリカ文学の諸相」
15:40- 休憩
15:55- 共同討議(千葉、矢倉、難波、ブルック、大橋)
17:30 終了予定
発表要旨
難波優輝「制作するフィクション」
本発表では、フィクションが世界をつくるはたらきを分析する。
フィクションが現実に与えうる影響について、フィクションとフィクション受容と社会的事実の関係から分析する。第一に、制度やゲームといった、フィクションと関連して語られるものごととフィクションとの異同を整理する。第二に、フィクションパワー概念を提示し、フィクションが現実に与えるいくつかの影響を整理する。さいごに、とくに、フィクションと社会的事実の関係に焦点をあて、フィクションが、どのような経路でどのような影響を社会的事実や制度に与えうるのかを、社会存在論を手がかりに考察する。以上、フィクションパワー概念の構築を通じて、フィクションが世界をつくるはたらきを分析する。
トーマス・ブルック「水村美苗における「文学の真理」と「小説がもちうる『真実の力』」――作品の英訳を通して考える」
水村美苗の『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(2008)は、相対性理論が代表するような発見の積み重ねの結果として教科書に書かれうる「学問の真理」とは別に、言葉そのものに依存する「文学の真理」を強調した点において、「ポストトゥルース」をめぐる議論の先駆けであったと言えよう。人類の文明の豊かさを損なわないために、日本語は選び直されなければならないという結論に至った水村は、「日本語ナショナリスト」とも批判されたが、本発表ではその議論を視野に入れつつ、小説における実践と、作者が積極的に関与しているという英訳を通して、水村という一人の「越境作家」・「日本語作家」が文学における「真理」や「真実」の問題をどのように提示しているかを考察し、その提示の仕方の意義と、今まで問題されてきたその「批評性」の有無を問い直す。
小森陽一(1998)と郭南燕(2013)は、リービ英雄と水村をはじめとする、日本の「外部」から日本文学の表舞台に登場した作家の作品において、作者の外部性ゆえに言葉で書かれている以上の意味が発生することを指摘している。水村の議論に特徴的なのは、このような現象を日本語の構造に由来するものとして提示していることである。
『日本語が亡びるとき』に先行して発表された『本格小説』(2002)の巻頭に置かれる「本格小説の始まる前の長い長い話」の最後に、日本語で「「私小説」的なものがより確実に「真実の力」を持ちうる」ことが、英語の「I」と比較したところで日本語の「私」という語が持つ機能に起因する可能性が述べられている。このような議論を作品内で行うことは、水村の文学を偏狭な愛国主義に転落することから救い、作家的「I」を脱臼させる批評的な可能性を潜めているとNakai(2005)は示唆している。しかし、その可能性は水村の作家としての諸主張と、作品内容及び彼女が協力している自作の英訳の方法と併せて検討する必要があると考えられる。本発表ではそのような作業を通じて、リービをはじめ他の「越境作家」の文学的企図との共通性を視野に入れつつ、水村における文学と現実との間の綱渡りの意義に新たな光を当てることを目的とする。
千葉雅也「解釈と詐欺」
言語使用を人間の本質として考えた場合、そこには、詐欺(あるいは嘘)の可能性が本質的に含まれることにもなる。自然言語で書かれたテクストを解釈することには、一切の詐欺性なき真なる意味の伝達を諦めるということが伴うのであり、それが人間の倫理にとって本質的に重要である。このことに関する最近の考察をスケッチする。
矢倉喬士「意識の疲れ──2010年代アメリカ文学の諸相」
2010年代にはスマートフォンが急速に普及し、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動や東日本大震災での救援要請において、各種SNSはコミュニケーションインフラとして大きな役割を担った。世界的に情報を送受信する感覚自体は新しいものではないが、個人が世界とつながっていてそれぞれに自前のジャーナリズムを展開しうるという感覚は、そこから生み出されるフィクション作品にも影響を与えた。2010年代に世界的に流行した文学形式を挙げるならば、まずもって作者の自伝的要素にフィクション性を織り交ぜて創作される「オートフィクション」を欠かすことはできない。状況全体を俯瞰する視点を持たず、作者個人のフィルターを通して世界を再構築するオートフィクションは、SNSを通して生み出される言葉との親和性を指摘されてきた。作家が状況全体を俯瞰せず個人のフィルターを通した言葉を発することはすなわち、文学が国家と結びついた国民文学から解放されることを意味し、アメリカ文学の文脈で言うところの「偉大なるアメリカ小説」型メガノヴェルを書く作家が減ることを意味する。また、2010年代のアメリカ文学の大きな特徴は、1960年代の公民権運動から半世紀ぶりに「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」という大きな政治的運動と共にフィクション作品が制作されたことであり、2010年代後半には #MeToo という運動もそこに加わることとなった。本発表では、2016年の大統領選を経てフィクションのあり方により一層自覚的に取り組むようになった作家・読者・批評家たちがどのようなフィクション制作と受容を行ってきたのかを、「意識の疲れ」をキーワードに考察する。
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