第15回神戸大学芸術学研究会「ディスタンスとコミュニケーション」

ポスター制作:難波優輝


概要

日時:2021年3月20日(土)13:00~17:30(聴講無料・要予約)

場所:Zoom

申し込みフォーム:https://forms.gle/SaUqKWs2DgNAZ7Ur6

登壇者:難波優輝(神戸大学大学院人文学研究科博士課程前期課程)

    中山恵理子(パリ・ナンテール大学哲学科修士課程)

    淵田仁(城西大学現代政策学部助教)

    宮田文久(フリーランス編集者)

司会:トーマス・ブルック(神戸大学大学院人文学研究科博士課程後期課程)

主催:神戸大学文学部 芸術学研究室


趣旨

コミュニケーションとは、原点に立ち返るならば、何らかの非単一性や差異、つまりディスタンスがあって初めて意味を持つ営みである。それは二つ以上の互いに異なる存在の間における情報交換、あるいは、その間における一方的または双方向的な働きかけとして捉えることができる。人間におけるそうした営みは言うまでもなく、有史以来、様々な技術の開発とその普及により、大きく形を変えてきた。特に、印刷物の大量生産とその流通を始め、現在のパソコンやスマートフォンを媒体とした衛星通信による人と人とが直接に触れ合わずとも成立するコミュニケーションは、私たちの日常生活において大きな部分を占めてきた。

飛沫感染が主要な伝播(コミュニケーション)ルートであるウイルスが世界中の共同体(コミュニティー)の体制を揺るがし、その構成員の命を脅かしている今、人と人との直接な接触を回避できる遠隔コミュニケーション技術は日常生活を最低限維持するために欠かせないものとなっている。しかし、そうしたコミュニケーションは果たしてどこまで従来の無媒体によるコミュニケーションに取って代わりうるものなのだろうか。また、社会全体における有媒体・無媒体のコミュニケーションの比率変化は、どのような影響をもたらすのだろうか。逆説的にも、個人と個人の間における物理的な距離の確保とその維持は、個々人を統合する原理を強化させているようである。「ウイルスとの闘い」において、国境が閉鎖され、その中での精神的な団結が図られ、包摂的で力強い「私たち」という呼号が発動する場面はしばしば見受けられる。生きるか死ぬか、通じるか通じないかの単色でバイナリーな世界において、微細な次元の差異を糧に成長してきた横のコミュニケーションが衰えはしないか、そんな危機感も募る日々である。

本研究会「ディスタンスとコミュニケーション」では、現下の状況を踏まえて、距離の大小とその性質がコミュニケーションの営みとどのように関わり合い、そこに個人的なこだわりや技巧(アート)の可能性はどのような範囲に及び、また発揮されうる(そして実際に発揮されてきた)のかという問いをめぐり考察したい。この試みを通して、「私たち」の、その「私」と「たち」の間(ディスタンス)に何が潜んでいるのか、その磁場の中でどのような力が働いているのかについて新たな知見を導き出せるだろう。

トーマス・ブルック(神戸大学大学院人文学研究科博士課程後期課程)


プログラム

第一部

13:00- 趣旨説明(トーマス・ブルック)

13:10- 発表と質疑応答

難波優輝「SFは他者を理解しそこない、ゆえに他者と出会い続ける––––進化論、ヘプタポッドB、ミモイド、人工神経制御言語」

中山恵理子「自伝における秘密とコミュニケーション––––ジェフリー・ベニントン「デリダベース」とジャック・デリダ「割礼告白」の関係」

14:30- 休憩

第二部

14:45- 招待ゲストによる特別講演

淵田仁「助任司祭のdistanciation––––ルソー的コミュニケーションのひとつの作法」

宮田文久「学ぶように、編み、書くこと––––リービ英雄から津野海太郎へ」

15:40- 休憩

第三部

15:55- 共同討議

17:30- 終了予定

(終了後にオンライン上の懇親会・打ち上げを開催予定)


発表要旨

難波優輝(神戸大学大学院人文学研究科博士課程前期課程)

「SFは他者を理解しそこない、ゆえに他者と出会い続ける––––進化論、ヘプタポッドB、ミモイド、人工神経制御言語」

SFの中で他者はどう描かれてきたのか? その描かれ方にはどんな行き止まりと可能性があるのか? 『高慢と偏見』のキャラクタたちのように、目配せが目配せを生み、意図を読む意図を読む意図といった複層的な関係よりも、宇宙人と人類、敵と味方、謎と答え–––こうした二項関係が描かれるSFは、それ自体が独特な他者理解のモデル構築の試みであり、おびただしい失敗の物語でもある。H・G・ウェルズ『宇宙戦争』、テッド・チャン「あなたの人生の物語」、スタニスワフ・レム『ソラリス』、長谷敏司『My Humanity』を取り上げ、心的モデル論からの読解を通じて、他者を理解するとは何かを論じていきたい。


中山恵理子(パリ・ナンテール大学哲学科修士課程)

「自伝における秘密とコミュニケーション––––ジェフリー・ベニントン「デリダベース」とジャック・デリダ「割礼告白」の関係」

一九九一年に「同時代人」叢書の一つとして出版された『ジャック・デリダ』には、デリダの自伝「割礼告白」が彼の思想をキーワードごとに解説するベニントンのテクスト「デリダベース」の下に脚注であるかのように置かれている。デリダはそこで彼の割礼について、共著者の関心を引かないものだが自伝には欠かせない、身体の決定的な傷だと語っている。同時に、生後間もなく行われた割礼は彼にとって「記憶喪失者の記憶」だと言い得るものであり、母が告白すべき秘密だと考えられてもいる。一方でこの自伝は、死期が近いと診断された認知症の母を見舞う記録にもなっている。その中でデリダ自身も当時患っていた病による死の恐怖を打ち明けている。そして以上のような死の予感や負傷した身体に関する記述は、「割礼告白」の中で共著者ベニントンを神に擬えて呼びかけ、デリダの思想を要約し再構築する「デリダベース」を無時間的で壊れないものとして言及するとき強調される。したがってそれらの記述は個人が全体に取り込まれることを阻む役割を担っていると考えられる。本発表ではこのことに関して、秘密とコミュニケーションの観点から分析する。


招待ゲスト

淵田仁(城西大学現代政策学部助教)

横浜市立大学商学部を卒業後、一橋大学大学院社会学研究科にて博士(社会学)取得。18世紀フランスの哲学・思想史が専攻。主な著作として『ルソーと方法』(法政大学出版局、2019年)がある。共著に『百科全書の時空──典拠・生成・転位』(法政大学出版局、2018年)、『〈つながり〉の現代思想──社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』(明石書店、2018年)等。

「助任司祭のdistanciation––––ルソー的コミュニケーションのひとつの作法」

『透明と障害』(1971年)というルソー論で批評家スタロバンスキーが真正面から取り組んだように、ルソーとコミュニケーションの問題は彼のテクストのなかに深く埋め込まれている。障害(社会からの迫害・告発・非難)に塗れた生を生きたルソーは、自らを透明な存在と披歴し無媒介なコミュニケーションを求めた。ただし、〈媒介されないコミュニケーション〉を希求するルソーはその不可能性をも理解していたはずだ――もっと言えば、その不可能性自体を自らのコミュニケーションの戦略としていた、と言えるのではないか。本発表ではルソーの宗教思想が展開された「サヴォワ助任司祭の信仰告白」(『エミール』第4巻に収められた物語内物語)をその草稿の生成分析を通じて、ルソーのコミュニケーションにおける距離化(distanciation:異化)の問題を検討する。この作業を経ることで、コミュニケーションの距離そのものが共同性の契機になるというルソー的論理を明確にすることができるだろう。


宮田文久(フリーランス編集者)

慶應義塾大学文学部社会学専攻卒業後、株式会社文藝春秋に入社。在職中に通信制である日本大学大学院総合社会情報研究科修了(博士論文は『現代日本文化における災厄の表象––––「越境」と「戦争の記憶」の理論的交点––––』)。『Number PLUS プロレス2016』デスクを務めたのち、2016年夏に独立。『群像』や『WIRED』日本版にインタビュー記事を掲載する他、自主出版の雑誌『DISCO』も手がける。

「学ぶように、編み、書くこと––––リービ英雄から津野海太郎へ」

発信することを生業としながら、コミュニケーション自体への幾ばくかの逡巡、いわば躊躇いながらの発信を、編集者としても書き手としても続けている。どのような状況にあるかわからない、不特定多数かつ見知らぬ誰かに発信することの難しさは、コロナ禍に限らず、メディアや専門知の立場の困難も含めて、私(たち)をとりまく所与の条件であるように感じられる。今回、編集者の宿痾たる散漫な手つきで取り上げるのは、発表者が以前より読んできた「越境」の作家・リービ英雄の表現/劇団黒テントおよび晶文社出身の編集者・津野海太郎による「テープ起こし」や「小さなメディア」をめぐる文章といった、近年読んでいるさまざまな書き手のテクスト群/具体的な実践における試行錯誤、といったものである。目指すのは“それでも発信するための手がかり”の共有なのだが、仮初めの論点のひとつを提示するならば、「誰かひとりの声になっていない」発信––––すなわちタイトルの「学ぶように、編み、書くこと」となる。わかったように編み、書くのではなく、わかりつつあること=変容の態度を編み、書くこと。それは果たして、アカデミック・ライティングとも両立するのだろうか。