はじめに
2021年3月20日(土)に、「ディスタンスとコミュニケーション」と題し、第15回神戸大学芸術学研究会を開催した。新型コロナウイルスの感染拡大が収束する見込みが得られないなか、Zoomを活用したオンライン開催となった。言うまでもなく、研究会のテーマ自体も大きくは「コロナ禍」によってもたらされつつある人々の交流の在り方の変化から着想を得たものであった。研究室修了生の二名による研究発表を経て、ルソー研究者の淵田仁氏(城西大学現代政策学部助教)とフリーランス編集者の宮田文久氏により特別講演を行っていただき、距離の大小が何かを伝えるという営みに及ぼす影響について、古今(と未来)東西の様々な観点から考え、話し合うことができた。本報告では、当日の研究発表・特別講演の内容、質疑応答、そしてディスカッションで交わされた議論を要約し、研究会全体を振り返りたい。
研究発表
まず、2021年3月に博士課程前期課程を修了された難波優輝に、「SFは他者を理解しそこない、ゆえに他者と出会い続ける––––進化論、ヘプタポッドB、ミモイド、人工神経制御言語」と題された研究発表を行っていただいた。
「SFは人間を描けていない」とよく言われる。小説・フィクションを私たちが読む大きな動機の一つは、他者の心の動きや他者同士の関係性を読み取り、感情移入したいからだとすれば、SFのこの傾向は「逸脱」だといえる。この傾向は、SFでは、主人公(人類)が何かの新事象(異種)と遭遇し、それと向き合い、それが提示する試練を克服する過程が主題となるが、そこでは極端に単純化された二項関係が描かれがちであることに由来するという。本発表で、難波はそうした批判を逆手に取り、SFを「コミュニケーションの寓話」として読む可能性を示した。
発表の中間部では、心の哲学における「心の理論(theory of mind)」(他者と遭遇したとき、人は「心的モデリング」を通して心的な表象を作成・シミュレーションし、それを他者に付与する、つまり帰属(attribute)させることを指す)を援用し、いくつかの著名なSF作品で実際にどのような他者との関係性が描かれているかを分析した。具体的には、H・G・ウェルズ「宇宙戦争」(1898)、テッド・チャン「あなたの人生の物語」(2002)、スタニスワフ・レム「ソラリス」(1961)、長谷敏司「allo, toi, toi」(2014)を取り上げた。心的モデリングが完全に欠如した、理解不可能な他者との出会いを描く作品もあれば(ウェルズの「宇宙戦争」)、異なる存在を安易に擬人化し、「心的モデリングの可能性への楽観的なビジョン」を提示する作品もある(チャンの「あなたの人生の物語」)。これらに対し、難波は問題含みの「心的モデリング」の例に焦点を当てた。こちらからではなく、向こう側から心的モデリングの試みが向けられてくる際、私たちはどのように反応すればよいのか(レムの「ソラリス」)。あるいは、理解や共感が不快感を呼び起こすような存在に対しては、心的モデリングはどのような可能性を持っているのだろうか(長谷の「allo, toi, toi」)。こうした問いを通じて、難波は失敗の可能性を自覚した上での継続的な心的モデリングの試み(それ自体、コミュニケーションの一種と言えるかもしれない)が持つ倫理性を提示し、「引き続きわたしたちが不快にも他者と出会い続けなければならない地点」を見出した。
次に、2020年3月に博士課程前期課程を修了し、パリ・ナンテール大学哲学科修士課程に在籍されている(発表時)中山恵理子に、「自伝における秘密とコミュニケーション––––ジェフリー・ベニントン「デリダベース」とジャック・デリダ「割礼告白」の関係」と題した研究発表を行っていただいた。
本発表で、中山はフランスのスイユ社が刊行する「同時代人」叢書の11冊目『ジャック・デリダ』(1991)に収録された解説者ジェフリー・ベニントンによる「デリダベース」と本の対象でもあったデリダ自身による「割礼告白」(circonfession)という二つのテキストを取り上げ考察した。「デリダベース」は、デリダの思想をキーワードごとに解説する内容であるのに対し、各ページの下に、脚注であるかのように配置される「割礼告白」では、デリダは上に位置するベニントンの解説を批評・批判するとともに、自分自身の「秘密」としての割礼について述べているという。つまり、この一冊において、解説者と一般読者、対象と解説者との間に、様々なコミュニケーションの実践が見られ、研究会のテーマについて考える上で非常に興味深いテキストである。
「デリダベース」の大きな特徴の一つは、デリダの思想や概念を解説するにあたって、デリダの引用が一つも含まれていないことである。解説者ベニントンによると、これは読者の理解を助けるためであるが、デリダはこれを個別性の捨象として批判している。また、デリダの重要な概念である「エクリチュール」については、書き手の個別性が関与しない、書き手と読み手を隔てる距離によって成立するコミュニケーションであると解説されているが、デリダの思想や概念に先行し、極めて個別的なものである割礼を主題とすることにより、デリダは自伝という形式を通じて解説者の試みに反抗していると中山は捉える。ところが、割礼という経験を身体の傷として提示しつつ、デリダはそれが彼の記憶によっては思い出せないものでもあることを強調している。対照的に、それは彼の母や叔父が知っているのみならず、それが彼に及ぼされることを許諾したことでもあった。こうした事情を踏まえて、中山は「デリダの自伝において秘密は、全体から個人を区別するものであると同時に、他者と自己を関係づけるもの」でもあると結論づけた。その考察からは、個別性(秘密)の排除によって分かりやすさを獲得しようとするいわば透明なコミュニケーションが秘めている暴力性を暴こうとするデリダの意図も見え隠れした。
短い休憩を挟んで、二方の特別講演に進んだ。まずは淵田仁に、「助任司祭のdistanciation––––ルソー的コミュニケーションのひとつの作法」という題に沿ってお話しいただいた。
ルソーの『エミール』(1762)は教師が少年エミールに教育を施し、社会化させることを主題とした、全五巻の小説兼教育論である。その第四巻では、エミールにどのように人と人との関係の在り方、つまり道徳を教えるかが中心的な話題となる。本発表で、淵田は『エミール』のテキストがいくつかの手稿から1762年の刊行版まで経た改変に関する草稿研究を踏まえて、ルソーの思想におけるコミュニケーションとディスタンスとの関係について考察を行った。特に、物語内物語として第四巻の中に挿入される「サヴォワ助任司祭の信仰告白」に焦点を当てた。
小説の設定上、エミールは自然状態、つまり抽象的な理念や概念を持っていないことになっている。そのような相手に対し理論的な説明をしても理解は得られないので、教師が取った手段は、〈見せる〉ことに重点を置いた、教え子が自由に自らの結論に到達するのに任せる「消極的教育」であった。「サヴォワ助任司祭の信仰告白」も、この教育法の一環として、エミールと読者の両方に「提供」されるのである。この「信仰告白」とは、かつて非行に陥った少年が、ある助任司祭の教えを仰ぐことにより、一人の良き市民に成長する過程が描かれている。しかし、描写の途中で、話の書き手自身が他でもないその少年であることが明らかにされる。
ところが、手稿から刊行版に至るまでに、この挿話の紹介の仕方に変化が生じたという。最初の手稿では、『エミール』の語り手・書き手=ルソー自身の体験談として提示されるのに対し、後の手稿と刊行版では自分より優れているという別の「一人の人間の考えていたこと」、そして最後にはその「原稿の作者に現実に起こったこと」として提示されるようになる。最初はもう一人の人間の話とされ、次にはその人が書いた文章へと次第に元の語り手から遠ざけられる。淵田はこの過程を、「語られるものの対象化」、および「真正性を担保するためのdistanciation(距離化)」と呼んでいる。この距離化のおかげで、教師の教えがより説得力をもって少年に届けられることになる。のみならず、教師による説得・説教ではなく、もう一人の人間の体験として、〈聞く―聞かせる〉関係が成立するため、そこから情動の共同体が立ち上がる契機もあるという。以上のように、効果的なコミュニケーションを実現するために距離が持つ重要性と、その距離をある程度意図的に偽造=演出する戦略もあり得ることが提示され、距離というものを即物的に捉えるだけでなく、共同体と同じく、「想像されたもの」としての側面も持っているものとして認識する必要が確認された。
最後に、宮田文久に、「学ぶように、編み、書くこと––––リービ英雄から津野海太郎へ」と題された講演をしていただいた。
講演のタイトルは、宮田氏自身がフリーランス編集者として心がける姿勢であり、お話の中ではかつて研究対象として扱ったことのある小説家リービ英雄のエッセイや小説、そして編集者のインスピレーションとして仰ぐ津野海太郎の仕事と言葉を取り上げつつ、その姿勢の根拠について語ってくださった。
まず冒頭で、哲学者カトリーヌ・マラブーのカフカ『変身』に関する考察を参考に、変身を遂げつつも、内面では同じ人格を保持し、そのギャップに苦しむことをめぐる寓話を、現代社会の普遍的な問題として提示した。誰しもそのような状況に陥りかねないなかでは、不特定多数の読者への安定した場所からの発信に対しては疑問を抱き、そのことから、発信側の自分自身の不安定さを隠さずに、分かったように書くのではなく、分かりつつあるという「変容の態度」そのものを編み、書くことの可能性と意義を考えるようになったという。また、そのような姿勢の先駆的な試みは、リービ英雄の小説家としての、そして津野の編集者としての実践には見出せるのではないかと提案した。
リービ英雄は、英語、中国語、最近はチベット語など、多言語的な状況を経験することをめぐる日本語による散文作品を30年来、継続的に発表してきた。宮田は、リービが「越境」という概念を行為ではなく、状態として捉えていることを踏まえて、彼の作品では「衝撃的な変容の瞬間」が数多く描かれていることを指摘した。現在身を置いている日本、また母国アメリカの主流文化から遠いものとの遭遇が、何らかの変容を作者等身大の主人公にもたらす。そのような記述により、静止的な日米関係では解消しきれないものが解きほぐされていく場面がリービの作品に多く描かれているというが、そのような記述の姿勢は編集者にも引き継がれうるものなのかと自問しているという。
講演の後半で、宮田はそうした問題意識と連続するものとして、「無私の記録者」であるはずの編集者が「ある種の演出家」にならざるを得ないという、津野海太郎の「テープ起こし」をめぐる方法論、そして津野と一緒に演劇活動に携わった来歴のある翻訳家・随筆家の藤本和子による「聞書」の実践を取り上げ、考察を進めた。その考察から浮かび上がった大きな共通点は、自分のものではない声を不特定の読者に届けようとする際、演出性はいかにポジティブに、積極的に捉え、活用できるかという問いであった。言うまでもなく、その問いの背景には、演出性を抑圧し、物事の本質を正確に記述することを理想とするアカデミズムと真正性をアピールするジャーナリズムの存在がある。従来のメディアやアカデミズムが信頼を失う危機にある昨今、それらの理念は簡単に否定できないが、「変容の状態」を記述から排除することにより、コミュニケーションの有効性が損なわれる部分が確かにあるといえよう。しかし、その「変容の状態」を可視化するような編集や記述も容易ではない。講演の最後に、宮田は自身が手掛けている最近の実践を紹介するとともに、動きが取れにくくなりつつある現在、変容を遂げ続ける移動なき「越境」の可能性を問いかけた。
ディスカッション
最後の共同討議では、発表の中で提示された問題をさらに深掘りすることができた。ここでは、いくつかの論点に絞り要約を試みたい。
まず、討議の全体を貫いたテーマの一つとして、現代の状況との連続性が挙げられる。研究会が行われた際も、本文章を書いている現在も、新型コロナウイルスによる感染拡大を防止すべく、人の移動と交流は制限され、遠隔的なコミュニケーションが日常生活や事務的な仕事の中でかつてない存在感を占めるようになっている。しかし、それが可能なのは、既にインターネットをはじめとする技術が広く普及し、一般人の生活の中の一部として定着していることに依存していよう。
例えば、パンデミックが発覚する以前から、既存の印刷メディアに依存しない形で、一人の話し手・製作者が多数のフォロワーに向けてコンテンツを継続的に配信し、場合によっては収入も得ることは珍しくなくなってきた。このような配信・受信環境は既存の印刷メディアと大きく異なる側面が多数ある。配信者が自らの身体(またはそれに代わるもの)を受信者に提示する、あるいはしないことの意義や是非はどうなのかという論点。あるいは、ライブ配信を行う場合、ほとんど自動化してきたモニタリング(監視機能)に対し発信者はいかに対応=変容すればよいのかという問題。こうした論点について、バーチャルYouTuberに関する論文を公開している難波とオンライン授業並びにYouTubeでの配信を実践している淵田に自らの経験を踏まえた視点を共有していただいた。
こうした問題は必ずしも最近初めて出現したものではない。18世紀のルソーでも、版画などを通して自身の身体イメージが読者に広く知られていることを強く意識した上で、時にはそのことを戦略的に利用しながら執筆活動を行っていたという。しかし、既存の印刷メディアでは配信者・表現者と受信者・読者の間の関係は編集者または編集チームの介入によって整備されていた。それが一気にほとんどすべて発信者自身の手に委ねられることが今一般化しているのである。この問題について、特に現役編集者の宮田が多くを語ってくださった。身体をどこまで受信者・読者に提示するかは、表現者自身に関わる問題だけではなく、編集者にも大いに関わることは、講演の中でも話していただいたが、ディスカッションでは、あえて編集の整理を行わず、制作・学びのプロセス(ラフさ)の透明化を図った試みにも、結局はどこかで編集者の「強権」が必ず発動している、という。この問題は、研究会全体を貫くテーマの一つ、コミュニケーションと権威の問題とも深く関連している。その意味で、ルソーの『エミール』で披露される「消極的教育」(教化を企てる側の権力の隠蔽とも言える)が世界中の教育学で模範とされる事態には憂慮すべきところもある、という淵田の指摘は大学の中で開催されている本イベントの会場で深刻な苦笑を招いた。
コミュニケーションと権威の問題はデリダにとって主要なテーマであることに異論はないだろうが、「秘密」に関する中山の発表もこの問題と接点があった。解説者ジェフリー・ベニントンは、そのイニシャルに因み、デリダによって「G」(ゴッド)と名指される箇所があるが、それはデリダの思想を思うがまま剔出し読者に提示する彼の全能(あるいは強権)を揶揄しているという。ところが、それに対抗するためにデリダが持ち出す「秘密」は、従来の共同体論における秘密とかなり違うことがディスカッションで浮上した。一般に共同体論において、秘密は共同体の成員が共有し、そのことによって絆を強化させる、外部者との差異を図る情報を指すことが想像される。しかしデリダの場合、それは彼自身の存在に関わる、言わなくても良いが、言う権利があるものとしての個別性であり、民主主義の基盤をなすものであるという。そして、ただの個人主義に行きつかない理由として、中山はそれが一人だけでは言明され得ず、他者との関係性に依存していることを挙げた。
以上のように、ディスカッションでは様々な論点が半ばばらばらに雑談される形となったが、身体性を消去し、透明な存在の演出が可能となる、あるいは思い込まれた共通の言語や言説が持つ暴力性に対し、どのように抗えば良いかという問題意識はある程度共有されているように感じられた。ディスタンスの大小がコミュニケーションにもたらす影響とは何か、という問いよりも、距離が縮んだり、延びたりと変化を遂げ続ける展望は、距離の固定化が強制的に強いられる現在、思い描くことはまだできるのかという問題をめぐる模索の時間だった、と要約できるかもしれない。
おわりに
以上、第15回神戸大学芸術学研究会「ディスタンスとコミュニケーション」を企画提案者として振り返ってみた。発表者、講演者、そして視聴者の皆様に、貴重な時間を割き、場の醸成に力を貸していただき、改めてお礼申し上げる。研究会の趣旨にも書いたことであるが、コロナ禍が本格的に発覚されると同時に、「わたしたち」全体の安全のために自粛と協力を呼び掛ける声が高まることに違和感を覚えたことがテーマ提案の大きなきっかけであった。もちろん、その呼び掛けの必要性と意義を痛感しており、実際に「自粛」と「協力」をすることにより、つまり、適切な距離を保つことにより、自分より大きな共同体の存在を感知し、それを支える、あるいは少なくともそれに余分な負担を掛けずに済ませていることに安堵を覚えたことは少なくない。しかし、自分を含んでいるその全体性と、自分(あるいは「自分たち」)との位置関係が、緊急事態ということを理由に不問にされる状態が長期継続することに対する警戒心は持ち続けたいと思う。研究会の内容を振り返って、「わたしたち」という関係は、ただそこにあるものではなく、これまでも、これからも、作られるものであることを再確認できた。人文学研究に携わる一人として、そのプロセスの一役を買う意欲と自信も新たにできたように思う。
イベント終了後、約半年後にリポートを公開していることには、パンデミックによる疲弊も関与しているとはいえ、大変遅くなったことを深くお詫びする。当日のお話を思い出し、思索をさらに展開させることに役立たせていただければ幸いである。
(トーマス・ブルック 博士課程後期課程・日本学術振興会特別研究員)
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