イベント

概要

日時:12月11日(日)13:00〜18:30

場所:神戸大学文学部B132教室【会場案内

登壇者:渡邊大樹(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

    瀬古知世(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

    江本紫織(京都芸術大学通信教育部専任講師)

    甲斐義明(新潟大学人文学部准教授)

コメンテータ:大橋完太郎(神戸大学文学部教授)

司会:西橋卓也(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

主催:神戸大学人文学研究科芸術学研究室

共催:科学研究費補助金(基盤研究(C))

「「動き」がデザインの評価に与える影響についての実証的研究」

お問い合わせ:arttheory.kobe(at)gmail.com(atを@に変えてください。)


趣旨

 カメラが標準搭載されたスマホを持ち歩き、撮影した写真に加工を施したり、InstagramやTwitterをはじめとする各種プラットフォームにアップロードしたりコメントしたり・・・このような現状を鑑みるに、わたしたちはかつてないほど写真に取り囲まれている。これまで図として存在していた写真は現在では地としてわたしたちの周りの風景を形作っている。言いかえれば、私たちの日常の風景には必ず写真が含まれている。つまりデジタル化が加速度的に進行しつつある現代において、写真をめぐる行為とそれに付随する事象は多様化または複雑化を極めている、そういって間違いないだろう。現代におけるこうした複雑さ極まる写真という媒体を考えるにあたり、その時間上の身分に注目することはひとつの切り口となりうるかもしれない。

 長時間にわたる露光によってしかその像を顕わにすることのなかった初期の時代から、ネット上にアップロードされ高速で流通・循環し、絶え間なくユーザによって閲覧され続け、写真が風景化した現代のデジタル環境にいたるまで、写真とそれに伴う行為をめぐる時間なるものは、常に劇的に変化を被ってきた。撮影、現像、流通といった実際上の時間にかぎらず、フォトグラムやスナップ写真や長時間露光による写真や自動的に撮影された写真など写真制作ないしそれに用いられる媒体の差異によっても生起する時間は異なってくるだろう。あるいは過去の痕跡としての写真が内包する時間、さらには、そうした写真が喚起する人間の情動の次元までをも視野に収め写真の時間性にアプローチする視座を探ること、それが本研究会の趣旨である。そこで本研究会では、写真とそれに伴う経験や行為や時間、そしてその関係性について新たな視座から研究をおこなっている江本紫織氏と、近著『ありのままのイメージ: スナップ美学と日本写真史』において「スナップ」という語を軸に写真史を再構築し、「スナップ写真」を新たに定義した甲斐義明氏をお呼びし、このように重層的な時間を含みもつ写真を「タイム・マシン」として枠付けつつ照射することで議論を深めたい。


プログラム

13:00- 開会の挨拶

13:10-13:50 発表①(渡邊大樹)

13:50-14:00質疑応答

14:10-14:50 発表②(瀬古知世)

14:50-15:00 質疑応答

休憩

15:30-16:10 発表③(江本紫織)

16:15-16:55 発表④(甲斐義明)

休憩

17:10- 共同討議(登壇者:渡邊、瀬古、江本、甲斐、コメンテータ:大橋完太郎、司会:西橋卓也)

18:30終了予定

(研究会終了後、懇親会の予定)


発表要旨

「フィリップ・デュボワにおける「行為」」

渡邊大樹(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

 本発表ではフランスの映像研究者であるフィリップ・デュボワ(1952-)の著書『写真的行為〔l’acte photographique〕』(1983年)において、「行為」という語がどのように使用されているかを分析し、その概念を考察する。デュボワは本書において、写真を固定されたイメージとしてではなく、写真それ自体を「イメージアクト〔image-acte〕 」として捉えることが、写真を議論する上で必要であると主張している。「行為」と写真、「行為」とイメージとの関係性から、デュボワが提示する「行為」という語がもつ独自性を明らかにする。そうすることで、写真というものを包括的に議論することができると発表者は主張する。


「『ドライブ・マイ・カー』における往還する行為」

瀬古知世(神戸大学人文学研究科博士後期課程)

『ドライブ・マイ・カー』(2021)は 濱口竜介(1978-)が監督をつとめ、脚本は大江崇允(1981-)と共同で執筆した映画作品である。村上春樹(1949-) が著した『女のいない男たち』(2014)に収録された短篇を基にしている。しかし単なるアダプテーションではなく映画オリジナルの要素が加えられ、映画独自の解釈がなされていることがこの映画を「村上春樹作品」であると感じさせる要因となっていると発表者は考える。そこで本発表では、まず『ドライブ・マイ・カー』において原作となった短篇小説との共通点を概観する。さらに映画独自の要素の一つであり、村上の作品に頻繁に登場する「往還する」行為をキーワードとして取り上げる。そして村上春樹の作品のなかで「往還する」行為をすることは何を表しているのかを具体的な作品を取り上げて分析し、そうした「往還する」行為が映画のなかでどのように表現されているかを北海道への旅路などの具体的なシーンやイメージを通じて考えてみたい。


「写真経験における時間軸——接続と無効化によって形成される「現実」と「自己」」

江本 紫織(京都芸術大学通信教育部専任講師)

 写真は「今-ここ」を超えた時間・空間の経験を可能にする。たとえば、写真を見ることによって、過去の現実や空間的に離れた現在がありありと思い起こされることがある。また、撮影時には写真が見られる未来が意識されることもあるだろう。ただし、そこで意識されるのは実際の現実そのものであるとは限らない。これについて本発表では、写真を撮ること、見ることに複数の時間軸が関わることに注目し、このことが写真を通して意識される「現実」にどのように作用するのかを示す。また、セルフィを対象に、スマートフォンによって撮影され、ソーシャルメディアで共有される写真の時間性および形成される「自己」の性質についても検討する。新旧の写真における時間性とそれらが形づくるものを比較することで、現代の写真が可能にする経験の性質の一端を明らかにすることを試みたい。


「アルフレッド・スティーグリッツによる過去(作品)の再編集」

甲斐義明(新潟大学人文学部准教授)

 本発表ではアメリカの写真家、アルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)がその晩年に自身の代表作を組み換えていった過程の分析を通して、芸術写真特有の時間性について考察する。1913年から1934年のあいだに、スティーグリッツは自身が運営するギャラリーで自作の展覧会を数回開いており、そのうちいくつかは回顧展であった。回顧展における展示作品のセレクションが、自身の写真家像を大きく左右することについて、スティーグリッツは自覚的であった。1934年の回顧展でおよそ30年ぶりに展示され、その後、彼の代表作のひとつとして扱われることになった写真に《ヴェネツィアの少年》(別名《ヴェネツィアの浮浪児》)(1894年)がある。みすぼらしい身なりの少年がカメラを強い眼差しで見つめる《ヴェネツィアの少年》は1920年代のモダニズム写真を連想させるだけではなく、孤独を恐れず、独立心に満ちた写真家の自己イメージもそこには投影されている。晩年のスティーグリッツによる、過去作品の新たな文脈づけは、写真の時間性を攪乱する。すなわち、それは撮影された30年以上経った「古い」写真であるにもかかわらず、スティーグリッツ作品としての《ヴェネツィアの少年》に「古さ」を示すものはほとんどない。むしろ、1920年代以降の成熟期のスティーグリッツ作品との類似性が強調されることで、《ヴェネツィアの少年》は特定の時間の制約から超越したイメージとして示されている。言い方を変えれば、スティーグリッツにとって、芸術写真とは常に「いま」に関するものであった。写真というメディウムの本性に抗うかのようにも見える、こうした自作の扱い方が、スティーグリッツが写真をモダン・アートの一分野として提示するうえでの戦略のひとつであった可能性について本発表では指摘したい。

ポスター制作:渡邊大樹


概要

 小説家の山田詠美の1985年のデビュー小説。神奈川県の横須賀を舞台に、クラブ歌手の日本人女性キムと米軍基地を脱走した黒人兵スプーンとの恋愛/性愛関係を描いた小説。

 このような舞台設定・人物設定を考えると、占領期以降の戦後日本における「アメリカの影」を描いた小説だとまずは言えるかもしれない。だが、本書の特徴は、視覚や触覚そして嗅覚など身体感覚のディティールの描写が際立っている点にある。言い換えれば、黒人男性と日本人女性の関係を、言語によるコミュニケーションとならんで身体的・生理的なコミュニケーションにも重点を置いて描いていた小説だと言えるだろう。こうした点をふまえ、本企画は以下のような関心のもと開催される。小説と映画という異なる二つのメディアにおいて、言語的/身体的コミュニケーションはどのように表象されているのだろうか。黒人男性と日本人女性との性的・人種にもとづく差異は言語的/身体的によってどのように差異化されて書かれているのか、あるいは、映し出されているのだろうか。こうした関心にもとづき本企画は、日本文学・日本映画における黒人表象がどのようになされてきたのか、ひいては異なる人種・民族間における言語的/身体的コミュニケーションのありかたなどをめぐって理解を深めることを目的として開催する。


◯スケジュール

3/4(金)13:00スタート 場所:神戸大学文学部視聴覚室B231

13:00- 企画趣旨説明

13:05- 映画上映(約2時間)

15:05- 休憩

15:20- ブルック・西橋 発表(各20分程度)

16:00- ディスカッション(40分程度)

-16:40 閉会 


◯発表要旨

トーマス・ブルック(博士課程後期課程)

「新しい「在日作家」としての文学批評––––リービ英雄による『ベッドタイムアイズ』評をめぐって」

 リービ英雄は、日本語作家としてのマニフェストのような性格を持つ初期エッセイ「日本語の勝利」(『中央公論』1990年1月)において、山田詠美の『ベッドタイムアイズ』(1985年)を大きく取り上げた。同エッセイにおいて、リービは脱走兵スプーンの「「日本化」された怒り」を問題視し、黒人としての彼自身の「文体」を与えられていない(それどころか彼本来の「文体」が「抹消」されているという)と批判的に捉えた。また、スプーンの描写をめぐって、「日本語における「表現する権利」の問題と関わっている」という見解を述べた。

本発表では、リービ英雄による『ベッドタイムアイズ』評を中心に、作家デビュー初期における同時代の日本文学作品に関する批評活動の位置付けと意義について考察する。その際、2006年に刊行された『ベッドタイムアイズ』の英訳を参照することにより、同作をあくまで日本語の問題として読んだリービの議論の相対化を試みたい。


西橋卓也(博士課程後期課程)

「映画『ベッドタイムタイズ』における黒人スプーンの表象について––––追加された諸要素をめぐって」(仮)

 映画『ベッドタイムアイズ』(神代辰巳監督、1987年)において、黒人男性スプーンはいかに映し出されているのだろうか。日本人女性キムとの言語(英語)によるやりとりや性的交渉のシーンにおいてショット/切り返しショットが多用される一方、視点ショットによる映像はみられない。視点ショットによる登場人物への同一化という映画の常套手段を踏まえるなら、黒人男性スプーンへの同一化を促すことのないこうした視点ショットの不在は、本作において異なる人種の人物を映し出すこととどのように関連づけることができるのだろうか。映画版では原作小説には存在しないシーンや設定が追加されている。たとえば、物語序盤にキムの恋人として登場する日本人男性、また、『灰とダイヤモンド』(アンジェイ・ワイダ監督、1958年)におけるラストシーン—ポーランドの反体制ゲリラに属する青年マチェクが保安隊によって射殺されるシーン—のスプーンによる模倣、などである。これら追加された諸要素は映画のなかでいかなる役割を果たしているのだろうか。

 本発表では、視点ショットの不在やこれらの追加された諸要素が、本作における黒人男性の表象に対してどのような意味を付与しているのかについて考察したい。

はじめに

 2021年3月20日(土)に、「ディスタンスとコミュニケーション」と題し、第15回神戸大学芸術学研究会を開催した。新型コロナウイルスの感染拡大が収束する見込みが得られないなか、Zoomを活用したオンライン開催となった。言うまでもなく、研究会のテーマ自体も大きくは「コロナ禍」によってもたらされつつある人々の交流の在り方の変化から着想を得たものであった。研究室修了生の二名による研究発表を経て、ルソー研究者の淵田仁氏(城西大学現代政策学部助教)とフリーランス編集者の宮田文久氏により特別講演を行っていただき、距離の大小が何かを伝えるという営みに及ぼす影響について、古今(と未来)東西の様々な観点から考え、話し合うことができた。本報告では、当日の研究発表・特別講演の内容、質疑応答、そしてディスカッションで交わされた議論を要約し、研究会全体を振り返りたい。


研究発表

 まず、2021年3月に博士課程前期課程を修了された難波優輝に、「SFは他者を理解しそこない、ゆえに他者と出会い続ける––––進化論、ヘプタポッドB、ミモイド、人工神経制御言語」と題された研究発表を行っていただいた。

 「SFは人間を描けていない」とよく言われる。小説・フィクションを私たちが読む大きな動機の一つは、他者の心の動きや他者同士の関係性を読み取り、感情移入したいからだとすれば、SFのこの傾向は「逸脱」だといえる。この傾向は、SFでは、主人公(人類)が何かの新事象(異種)と遭遇し、それと向き合い、それが提示する試練を克服する過程が主題となるが、そこでは極端に単純化された二項関係が描かれがちであることに由来するという。本発表で、難波はそうした批判を逆手に取り、SFを「コミュニケーションの寓話」として読む可能性を示した。

 発表の中間部では、心の哲学における「心の理論(theory of mind)」(他者と遭遇したとき、人は「心的モデリング」を通して心的な表象を作成・シミュレーションし、それを他者に付与する、つまり帰属(attribute)させることを指す)を援用し、いくつかの著名なSF作品で実際にどのような他者との関係性が描かれているかを分析した。具体的には、H・G・ウェルズ「宇宙戦争」(1898)、テッド・チャン「あなたの人生の物語」(2002)、スタニスワフ・レム「ソラリス」(1961)、長谷敏司「allo, toi, toi」(2014)を取り上げた。心的モデリングが完全に欠如した、理解不可能な他者との出会いを描く作品もあれば(ウェルズの「宇宙戦争」)、異なる存在を安易に擬人化し、「心的モデリングの可能性への楽観的なビジョン」を提示する作品もある(チャンの「あなたの人生の物語」)。これらに対し、難波は問題含みの「心的モデリング」の例に焦点を当てた。こちらからではなく、向こう側から心的モデリングの試みが向けられてくる際、私たちはどのように反応すればよいのか(レムの「ソラリス」)。あるいは、理解や共感が不快感を呼び起こすような存在に対しては、心的モデリングはどのような可能性を持っているのだろうか(長谷の「allo, toi, toi」)。こうした問いを通じて、難波は失敗の可能性を自覚した上での継続的な心的モデリングの試み(それ自体、コミュニケーションの一種と言えるかもしれない)が持つ倫理性を提示し、「引き続きわたしたちが不快にも他者と出会い続けなければならない地点」を見出した。

 次に、2020年3月に博士課程前期課程を修了し、パリ・ナンテール大学哲学科修士課程に在籍されている(発表時)中山恵理子に、「自伝における秘密とコミュニケーション––––ジェフリー・ベニントン「デリダベース」とジャック・デリダ「割礼告白」の関係」と題した研究発表を行っていただいた。

 本発表で、中山はフランスのスイユ社が刊行する「同時代人」叢書の11冊目『ジャック・デリダ』(1991)に収録された解説者ジェフリー・ベニントンによる「デリダベース」と本の対象でもあったデリダ自身による「割礼告白」(circonfession)という二つのテキストを取り上げ考察した。「デリダベース」は、デリダの思想をキーワードごとに解説する内容であるのに対し、各ページの下に、脚注であるかのように配置される「割礼告白」では、デリダは上に位置するベニントンの解説を批評・批判するとともに、自分自身の「秘密」としての割礼について述べているという。つまり、この一冊において、解説者と一般読者、対象と解説者との間に、様々なコミュニケーションの実践が見られ、研究会のテーマについて考える上で非常に興味深いテキストである。

 「デリダベース」の大きな特徴の一つは、デリダの思想や概念を解説するにあたって、デリダの引用が一つも含まれていないことである。解説者ベニントンによると、これは読者の理解を助けるためであるが、デリダはこれを個別性の捨象として批判している。また、デリダの重要な概念である「エクリチュール」については、書き手の個別性が関与しない、書き手と読み手を隔てる距離によって成立するコミュニケーションであると解説されているが、デリダの思想や概念に先行し、極めて個別的なものである割礼を主題とすることにより、デリダは自伝という形式を通じて解説者の試みに反抗していると中山は捉える。ところが、割礼という経験を身体の傷として提示しつつ、デリダはそれが彼の記憶によっては思い出せないものでもあることを強調している。対照的に、それは彼の母や叔父が知っているのみならず、それが彼に及ぼされることを許諾したことでもあった。こうした事情を踏まえて、中山は「デリダの自伝において秘密は、全体から個人を区別するものであると同時に、他者と自己を関係づけるもの」でもあると結論づけた。その考察からは、個別性(秘密)の排除によって分かりやすさを獲得しようとするいわば透明なコミュニケーションが秘めている暴力性を暴こうとするデリダの意図も見え隠れした。

 短い休憩を挟んで、二方の特別講演に進んだ。まずは淵田仁に、「助任司祭のdistanciation––––ルソー的コミュニケーションのひとつの作法」という題に沿ってお話しいただいた。

 ルソーの『エミール』(1762)は教師が少年エミールに教育を施し、社会化させることを主題とした、全五巻の小説兼教育論である。その第四巻では、エミールにどのように人と人との関係の在り方、つまり道徳を教えるかが中心的な話題となる。本発表で、淵田は『エミール』のテキストがいくつかの手稿から1762年の刊行版まで経た改変に関する草稿研究を踏まえて、ルソーの思想におけるコミュニケーションとディスタンスとの関係について考察を行った。特に、物語内物語として第四巻の中に挿入される「サヴォワ助任司祭の信仰告白」に焦点を当てた。

 小説の設定上、エミールは自然状態、つまり抽象的な理念や概念を持っていないことになっている。そのような相手に対し理論的な説明をしても理解は得られないので、教師が取った手段は、〈見せる〉ことに重点を置いた、教え子が自由に自らの結論に到達するのに任せる「消極的教育」であった。「サヴォワ助任司祭の信仰告白」も、この教育法の一環として、エミールと読者の両方に「提供」されるのである。この「信仰告白」とは、かつて非行に陥った少年が、ある助任司祭の教えを仰ぐことにより、一人の良き市民に成長する過程が描かれている。しかし、描写の途中で、話の書き手自身が他でもないその少年であることが明らかにされる。

 ところが、手稿から刊行版に至るまでに、この挿話の紹介の仕方に変化が生じたという。最初の手稿では、『エミール』の語り手・書き手=ルソー自身の体験談として提示されるのに対し、後の手稿と刊行版では自分より優れているという別の「一人の人間の考えていたこと」、そして最後にはその「原稿の作者に現実に起こったこと」として提示されるようになる。最初はもう一人の人間の話とされ、次にはその人が書いた文章へと次第に元の語り手から遠ざけられる。淵田はこの過程を、「語られるものの対象化」、および「真正性を担保するためのdistanciation(距離化)」と呼んでいる。この距離化のおかげで、教師の教えがより説得力をもって少年に届けられることになる。のみならず、教師による説得・説教ではなく、もう一人の人間の体験として、〈聞く―聞かせる〉関係が成立するため、そこから情動の共同体が立ち上がる契機もあるという。以上のように、効果的なコミュニケーションを実現するために距離が持つ重要性と、その距離をある程度意図的に偽造=演出する戦略もあり得ることが提示され、距離というものを即物的に捉えるだけでなく、共同体と同じく、「想像されたもの」としての側面も持っているものとして認識する必要が確認された。

 最後に、宮田文久に、「学ぶように、編み、書くこと––––リービ英雄から津野海太郎へ」と題された講演をしていただいた。

 講演のタイトルは、宮田氏自身がフリーランス編集者として心がける姿勢であり、お話の中ではかつて研究対象として扱ったことのある小説家リービ英雄のエッセイや小説、そして編集者のインスピレーションとして仰ぐ津野海太郎の仕事と言葉を取り上げつつ、その姿勢の根拠について語ってくださった。

 まず冒頭で、哲学者カトリーヌ・マラブーのカフカ『変身』に関する考察を参考に、変身を遂げつつも、内面では同じ人格を保持し、そのギャップに苦しむことをめぐる寓話を、現代社会の普遍的な問題として提示した。誰しもそのような状況に陥りかねないなかでは、不特定多数の読者への安定した場所からの発信に対しては疑問を抱き、そのことから、発信側の自分自身の不安定さを隠さずに、分かったように書くのではなく、分かりつつあるという「変容の態度」そのものを編み、書くことの可能性と意義を考えるようになったという。また、そのような姿勢の先駆的な試みは、リービ英雄の小説家としての、そして津野の編集者としての実践には見出せるのではないかと提案した。

 リービ英雄は、英語、中国語、最近はチベット語など、多言語的な状況を経験することをめぐる日本語による散文作品を30年来、継続的に発表してきた。宮田は、リービが「越境」という概念を行為ではなく、状態として捉えていることを踏まえて、彼の作品では「衝撃的な変容の瞬間」が数多く描かれていることを指摘した。現在身を置いている日本、また母国アメリカの主流文化から遠いものとの遭遇が、何らかの変容を作者等身大の主人公にもたらす。そのような記述により、静止的な日米関係では解消しきれないものが解きほぐされていく場面がリービの作品に多く描かれているというが、そのような記述の姿勢は編集者にも引き継がれうるものなのかと自問しているという。

 講演の後半で、宮田はそうした問題意識と連続するものとして、「無私の記録者」であるはずの編集者が「ある種の演出家」にならざるを得ないという、津野海太郎の「テープ起こし」をめぐる方法論、そして津野と一緒に演劇活動に携わった来歴のある翻訳家・随筆家の藤本和子による「聞書」の実践を取り上げ、考察を進めた。その考察から浮かび上がった大きな共通点は、自分のものではない声を不特定の読者に届けようとする際、演出性はいかにポジティブに、積極的に捉え、活用できるかという問いであった。言うまでもなく、その問いの背景には、演出性を抑圧し、物事の本質を正確に記述することを理想とするアカデミズムと真正性をアピールするジャーナリズムの存在がある。従来のメディアやアカデミズムが信頼を失う危機にある昨今、それらの理念は簡単に否定できないが、「変容の状態」を記述から排除することにより、コミュニケーションの有効性が損なわれる部分が確かにあるといえよう。しかし、その「変容の状態」を可視化するような編集や記述も容易ではない。講演の最後に、宮田は自身が手掛けている最近の実践を紹介するとともに、動きが取れにくくなりつつある現在、変容を遂げ続ける移動なき「越境」の可能性を問いかけた。


ディスカッション

 最後の共同討議では、発表の中で提示された問題をさらに深掘りすることができた。ここでは、いくつかの論点に絞り要約を試みたい。

 まず、討議の全体を貫いたテーマの一つとして、現代の状況との連続性が挙げられる。研究会が行われた際も、本文章を書いている現在も、新型コロナウイルスによる感染拡大を防止すべく、人の移動と交流は制限され、遠隔的なコミュニケーションが日常生活や事務的な仕事の中でかつてない存在感を占めるようになっている。しかし、それが可能なのは、既にインターネットをはじめとする技術が広く普及し、一般人の生活の中の一部として定着していることに依存していよう。

 例えば、パンデミックが発覚する以前から、既存の印刷メディアに依存しない形で、一人の話し手・製作者が多数のフォロワーに向けてコンテンツを継続的に配信し、場合によっては収入も得ることは珍しくなくなってきた。このような配信・受信環境は既存の印刷メディアと大きく異なる側面が多数ある。配信者が自らの身体(またはそれに代わるもの)を受信者に提示する、あるいはしないことの意義や是非はどうなのかという論点。あるいは、ライブ配信を行う場合、ほとんど自動化してきたモニタリング(監視機能)に対し発信者はいかに対応=変容すればよいのかという問題。こうした論点について、バーチャルYouTuberに関する論文を公開している難波とオンライン授業並びにYouTubeでの配信を実践している淵田に自らの経験を踏まえた視点を共有していただいた。

 こうした問題は必ずしも最近初めて出現したものではない。18世紀のルソーでも、版画などを通して自身の身体イメージが読者に広く知られていることを強く意識した上で、時にはそのことを戦略的に利用しながら執筆活動を行っていたという。しかし、既存の印刷メディアでは配信者・表現者と受信者・読者の間の関係は編集者または編集チームの介入によって整備されていた。それが一気にほとんどすべて発信者自身の手に委ねられることが今一般化しているのである。この問題について、特に現役編集者の宮田が多くを語ってくださった。身体をどこまで受信者・読者に提示するかは、表現者自身に関わる問題だけではなく、編集者にも大いに関わることは、講演の中でも話していただいたが、ディスカッションでは、あえて編集の整理を行わず、制作・学びのプロセス(ラフさ)の透明化を図った試みにも、結局はどこかで編集者の「強権」が必ず発動している、という。この問題は、研究会全体を貫くテーマの一つ、コミュニケーションと権威の問題とも深く関連している。その意味で、ルソーの『エミール』で披露される「消極的教育」(教化を企てる側の権力の隠蔽とも言える)が世界中の教育学で模範とされる事態には憂慮すべきところもある、という淵田の指摘は大学の中で開催されている本イベントの会場で深刻な苦笑を招いた。

 コミュニケーションと権威の問題はデリダにとって主要なテーマであることに異論はないだろうが、「秘密」に関する中山の発表もこの問題と接点があった。解説者ジェフリー・ベニントンは、そのイニシャルに因み、デリダによって「G」(ゴッド)と名指される箇所があるが、それはデリダの思想を思うがまま剔出し読者に提示する彼の全能(あるいは強権)を揶揄しているという。ところが、それに対抗するためにデリダが持ち出す「秘密」は、従来の共同体論における秘密とかなり違うことがディスカッションで浮上した。一般に共同体論において、秘密は共同体の成員が共有し、そのことによって絆を強化させる、外部者との差異を図る情報を指すことが想像される。しかしデリダの場合、それは彼自身の存在に関わる、言わなくても良いが、言う権利があるものとしての個別性であり、民主主義の基盤をなすものであるという。そして、ただの個人主義に行きつかない理由として、中山はそれが一人だけでは言明され得ず、他者との関係性に依存していることを挙げた。

 以上のように、ディスカッションでは様々な論点が半ばばらばらに雑談される形となったが、身体性を消去し、透明な存在の演出が可能となる、あるいは思い込まれた共通の言語や言説が持つ暴力性に対し、どのように抗えば良いかという問題意識はある程度共有されているように感じられた。ディスタンスの大小がコミュニケーションにもたらす影響とは何か、という問いよりも、距離が縮んだり、延びたりと変化を遂げ続ける展望は、距離の固定化が強制的に強いられる現在、思い描くことはまだできるのかという問題をめぐる模索の時間だった、と要約できるかもしれない。


おわりに

 以上、第15回神戸大学芸術学研究会「ディスタンスとコミュニケーション」を企画提案者として振り返ってみた。発表者、講演者、そして視聴者の皆様に、貴重な時間を割き、場の醸成に力を貸していただき、改めてお礼申し上げる。研究会の趣旨にも書いたことであるが、コロナ禍が本格的に発覚されると同時に、「わたしたち」全体の安全のために自粛と協力を呼び掛ける声が高まることに違和感を覚えたことがテーマ提案の大きなきっかけであった。もちろん、その呼び掛けの必要性と意義を痛感しており、実際に「自粛」と「協力」をすることにより、つまり、適切な距離を保つことにより、自分より大きな共同体の存在を感知し、それを支える、あるいは少なくともそれに余分な負担を掛けずに済ませていることに安堵を覚えたことは少なくない。しかし、自分を含んでいるその全体性と、自分(あるいは「自分たち」)との位置関係が、緊急事態ということを理由に不問にされる状態が長期継続することに対する警戒心は持ち続けたいと思う。研究会の内容を振り返って、「わたしたち」という関係は、ただそこにあるものではなく、これまでも、これからも、作られるものであることを再確認できた。人文学研究に携わる一人として、そのプロセスの一役を買う意欲と自信も新たにできたように思う。

 イベント終了後、約半年後にリポートを公開していることには、パンデミックによる疲弊も関与しているとはいえ、大変遅くなったことを深くお詫びする。当日のお話を思い出し、思索をさらに展開させることに役立たせていただければ幸いである。

(トーマス・ブルック 博士課程後期課程・日本学術振興会特別研究員)

ポスター制作:難波優輝


概要

日時:2021年3月20日(土)13:00~17:30(聴講無料・要予約)

場所:Zoom

申し込みフォーム:https://forms.gle/SaUqKWs2DgNAZ7Ur6

登壇者:難波優輝(神戸大学大学院人文学研究科博士課程前期課程)

    中山恵理子(パリ・ナンテール大学哲学科修士課程)

    淵田仁(城西大学現代政策学部助教)

    宮田文久(フリーランス編集者)

司会:トーマス・ブルック(神戸大学大学院人文学研究科博士課程後期課程)

主催:神戸大学文学部 芸術学研究室


趣旨

コミュニケーションとは、原点に立ち返るならば、何らかの非単一性や差異、つまりディスタンスがあって初めて意味を持つ営みである。それは二つ以上の互いに異なる存在の間における情報交換、あるいは、その間における一方的または双方向的な働きかけとして捉えることができる。人間におけるそうした営みは言うまでもなく、有史以来、様々な技術の開発とその普及により、大きく形を変えてきた。特に、印刷物の大量生産とその流通を始め、現在のパソコンやスマートフォンを媒体とした衛星通信による人と人とが直接に触れ合わずとも成立するコミュニケーションは、私たちの日常生活において大きな部分を占めてきた。

飛沫感染が主要な伝播(コミュニケーション)ルートであるウイルスが世界中の共同体(コミュニティー)の体制を揺るがし、その構成員の命を脅かしている今、人と人との直接な接触を回避できる遠隔コミュニケーション技術は日常生活を最低限維持するために欠かせないものとなっている。しかし、そうしたコミュニケーションは果たしてどこまで従来の無媒体によるコミュニケーションに取って代わりうるものなのだろうか。また、社会全体における有媒体・無媒体のコミュニケーションの比率変化は、どのような影響をもたらすのだろうか。逆説的にも、個人と個人の間における物理的な距離の確保とその維持は、個々人を統合する原理を強化させているようである。「ウイルスとの闘い」において、国境が閉鎖され、その中での精神的な団結が図られ、包摂的で力強い「私たち」という呼号が発動する場面はしばしば見受けられる。生きるか死ぬか、通じるか通じないかの単色でバイナリーな世界において、微細な次元の差異を糧に成長してきた横のコミュニケーションが衰えはしないか、そんな危機感も募る日々である。

本研究会「ディスタンスとコミュニケーション」では、現下の状況を踏まえて、距離の大小とその性質がコミュニケーションの営みとどのように関わり合い、そこに個人的なこだわりや技巧(アート)の可能性はどのような範囲に及び、また発揮されうる(そして実際に発揮されてきた)のかという問いをめぐり考察したい。この試みを通して、「私たち」の、その「私」と「たち」の間(ディスタンス)に何が潜んでいるのか、その磁場の中でどのような力が働いているのかについて新たな知見を導き出せるだろう。

トーマス・ブルック(神戸大学大学院人文学研究科博士課程後期課程)


プログラム

第一部

13:00- 趣旨説明(トーマス・ブルック)

13:10- 発表と質疑応答

難波優輝「SFは他者を理解しそこない、ゆえに他者と出会い続ける––––進化論、ヘプタポッドB、ミモイド、人工神経制御言語」

中山恵理子「自伝における秘密とコミュニケーション––––ジェフリー・ベニントン「デリダベース」とジャック・デリダ「割礼告白」の関係」

14:30- 休憩

第二部

14:45- 招待ゲストによる特別講演

淵田仁「助任司祭のdistanciation––––ルソー的コミュニケーションのひとつの作法」

宮田文久「学ぶように、編み、書くこと––––リービ英雄から津野海太郎へ」

15:40- 休憩

第三部

15:55- 共同討議

17:30- 終了予定

(終了後にオンライン上の懇親会・打ち上げを開催予定)


発表要旨

難波優輝(神戸大学大学院人文学研究科博士課程前期課程)

「SFは他者を理解しそこない、ゆえに他者と出会い続ける––––進化論、ヘプタポッドB、ミモイド、人工神経制御言語」

SFの中で他者はどう描かれてきたのか? その描かれ方にはどんな行き止まりと可能性があるのか? 『高慢と偏見』のキャラクタたちのように、目配せが目配せを生み、意図を読む意図を読む意図といった複層的な関係よりも、宇宙人と人類、敵と味方、謎と答え–––こうした二項関係が描かれるSFは、それ自体が独特な他者理解のモデル構築の試みであり、おびただしい失敗の物語でもある。H・G・ウェルズ『宇宙戦争』、テッド・チャン「あなたの人生の物語」、スタニスワフ・レム『ソラリス』、長谷敏司『My Humanity』を取り上げ、心的モデル論からの読解を通じて、他者を理解するとは何かを論じていきたい。


中山恵理子(パリ・ナンテール大学哲学科修士課程)

「自伝における秘密とコミュニケーション––––ジェフリー・ベニントン「デリダベース」とジャック・デリダ「割礼告白」の関係」

一九九一年に「同時代人」叢書の一つとして出版された『ジャック・デリダ』には、デリダの自伝「割礼告白」が彼の思想をキーワードごとに解説するベニントンのテクスト「デリダベース」の下に脚注であるかのように置かれている。デリダはそこで彼の割礼について、共著者の関心を引かないものだが自伝には欠かせない、身体の決定的な傷だと語っている。同時に、生後間もなく行われた割礼は彼にとって「記憶喪失者の記憶」だと言い得るものであり、母が告白すべき秘密だと考えられてもいる。一方でこの自伝は、死期が近いと診断された認知症の母を見舞う記録にもなっている。その中でデリダ自身も当時患っていた病による死の恐怖を打ち明けている。そして以上のような死の予感や負傷した身体に関する記述は、「割礼告白」の中で共著者ベニントンを神に擬えて呼びかけ、デリダの思想を要約し再構築する「デリダベース」を無時間的で壊れないものとして言及するとき強調される。したがってそれらの記述は個人が全体に取り込まれることを阻む役割を担っていると考えられる。本発表ではこのことに関して、秘密とコミュニケーションの観点から分析する。


招待ゲスト

淵田仁(城西大学現代政策学部助教)

横浜市立大学商学部を卒業後、一橋大学大学院社会学研究科にて博士(社会学)取得。18世紀フランスの哲学・思想史が専攻。主な著作として『ルソーと方法』(法政大学出版局、2019年)がある。共著に『百科全書の時空──典拠・生成・転位』(法政大学出版局、2018年)、『〈つながり〉の現代思想──社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』(明石書店、2018年)等。

「助任司祭のdistanciation––––ルソー的コミュニケーションのひとつの作法」

『透明と障害』(1971年)というルソー論で批評家スタロバンスキーが真正面から取り組んだように、ルソーとコミュニケーションの問題は彼のテクストのなかに深く埋め込まれている。障害(社会からの迫害・告発・非難)に塗れた生を生きたルソーは、自らを透明な存在と披歴し無媒介なコミュニケーションを求めた。ただし、〈媒介されないコミュニケーション〉を希求するルソーはその不可能性をも理解していたはずだ――もっと言えば、その不可能性自体を自らのコミュニケーションの戦略としていた、と言えるのではないか。本発表ではルソーの宗教思想が展開された「サヴォワ助任司祭の信仰告白」(『エミール』第4巻に収められた物語内物語)をその草稿の生成分析を通じて、ルソーのコミュニケーションにおける距離化(distanciation:異化)の問題を検討する。この作業を経ることで、コミュニケーションの距離そのものが共同性の契機になるというルソー的論理を明確にすることができるだろう。


宮田文久(フリーランス編集者)

慶應義塾大学文学部社会学専攻卒業後、株式会社文藝春秋に入社。在職中に通信制である日本大学大学院総合社会情報研究科修了(博士論文は『現代日本文化における災厄の表象––––「越境」と「戦争の記憶」の理論的交点––––』)。『Number PLUS プロレス2016』デスクを務めたのち、2016年夏に独立。『群像』や『WIRED』日本版にインタビュー記事を掲載する他、自主出版の雑誌『DISCO』も手がける。

「学ぶように、編み、書くこと––––リービ英雄から津野海太郎へ」

発信することを生業としながら、コミュニケーション自体への幾ばくかの逡巡、いわば躊躇いながらの発信を、編集者としても書き手としても続けている。どのような状況にあるかわからない、不特定多数かつ見知らぬ誰かに発信することの難しさは、コロナ禍に限らず、メディアや専門知の立場の困難も含めて、私(たち)をとりまく所与の条件であるように感じられる。今回、編集者の宿痾たる散漫な手つきで取り上げるのは、発表者が以前より読んできた「越境」の作家・リービ英雄の表現/劇団黒テントおよび晶文社出身の編集者・津野海太郎による「テープ起こし」や「小さなメディア」をめぐる文章といった、近年読んでいるさまざまな書き手のテクスト群/具体的な実践における試行錯誤、といったものである。目指すのは“それでも発信するための手がかり”の共有なのだが、仮初めの論点のひとつを提示するならば、「誰かひとりの声になっていない」発信––––すなわちタイトルの「学ぶように、編み、書くこと」となる。わかったように編み、書くのではなく、わかりつつあること=変容の態度を編み、書くこと。それは果たして、アカデミック・ライティングとも両立するのだろうか。

ポスター制作 難波優輝


概要

日時:2019年12月7日(土)13:00-17:30(聴講無料・予約不要)

場所:神戸大学文学部 C棟5階大会議室【会場案内】

登壇者:難波優輝(神戸大学大学院博士課程前期課程)

    トーマス・ブルック(神戸大学大学院博士課程後期課程)

    千葉雅也(立命館大学大学院先端総合研究科)

    矢倉喬士(西南学院大学言語教育センター)

司会:居村匠(神戸大学大学院博士課程後期課程)

コメンテーター:大橋完太郎(神戸大学大学院人文学研究科)

主催:神戸大学芸術学研究室

   科学研究費補助金基盤(C)「ポスト・ノスタルジー美学の成立と構造」研究課題番号:19K00132 研究代表者:大橋完太郎


主旨

 事実よりもイデオロギーや信念が優先されるような、「ポストトゥルース」と呼ばれる状況となってひさしい。言うまでもなく、私たちが自らを形づくるのは真実のみによってではない。虚構、想像的なもの、フィクションもまた私たちを満たしている。つまり、真理の価値が問われる時代とは、その対応物としてのフィクションの価値が問われる時代にも他ならない。このような状況において、単にそれを批判し「真実」へと回帰することは、広義のフィクションとしての芸術をも否定するものである。真実の影でも虚偽への居直りでもない、フィクションの地位はありうるだろうか。それはとりもなおさず、現代の私たちにとっての芸術の、あるいは芸術を研究することの意味を考えることでもある。このような問いを背景に、今年度の神戸大学芸術学研究会はフィクションの力、作用、権力を考えたい。


プログラム

13:00- 開会挨拶

13:10- 発表1

    難波優輝「制作するフィクション」

    トーマス・ブルック

   「水村美苗における「文学の真理」と「小説がもちうる『真実の力』」:作品の英訳を通して考える」

14:30- 休憩

14:45- 発表2

    千葉雅也「解釈と詐欺」

    矢倉喬士「意識の疲れ──2010年代アメリカ文学の諸相」

15:40- 休憩

15:55- 共同討議(千葉、矢倉、難波、ブルック、大橋)

17:30  終了予定


発表要旨

難波優輝「制作するフィクション」
 本発表では、フィクションが世界をつくるはたらきを分析する。
 フィクションが現実に与えうる影響について、フィクションとフィクション受容と社会的事実の関係から分析する。第一に、制度やゲームといった、フィクションと関連して語られるものごととフィクションとの異同を整理する。第二に、フィクションパワー概念を提示し、フィクションが現実に与えるいくつかの影響を整理する。さいごに、とくに、フィクションと社会的事実の関係に焦点をあて、フィクションが、どのような経路でどのような影響を社会的事実や制度に与えうるのかを、社会存在論を手がかりに考察する。以上、フィクションパワー概念の構築を通じて、フィクションが世界をつくるはたらきを分析する。


トーマス・ブルック「水村美苗における「文学の真理」と「小説がもちうる『真実の力』」――作品の英訳を通して考える」

 水村美苗の『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(2008)は、相対性理論が代表するような発見の積み重ねの結果として教科書に書かれうる「学問の真理」とは別に、言葉そのものに依存する「文学の真理」を強調した点において、「ポストトゥルース」をめぐる議論の先駆けであったと言えよう。人類の文明の豊かさを損なわないために、日本語は選び直されなければならないという結論に至った水村は、「日本語ナショナリスト」とも批判されたが、本発表ではその議論を視野に入れつつ、小説における実践と、作者が積極的に関与しているという英訳を通して、水村という一人の「越境作家」・「日本語作家」が文学における「真理」や「真実」の問題をどのように提示しているかを考察し、その提示の仕方の意義と、今まで問題されてきたその「批評性」の有無を問い直す。
 小森陽一(1998)と郭南燕(2013)は、リービ英雄と水村をはじめとする、日本の「外部」から日本文学の表舞台に登場した作家の作品において、作者の外部性ゆえに言葉で書かれている以上の意味が発生することを指摘している。水村の議論に特徴的なのは、このような現象を日本語の構造に由来するものとして提示していることである。
 『日本語が亡びるとき』に先行して発表された『本格小説』(2002)の巻頭に置かれる「本格小説の始まる前の長い長い話」の最後に、日本語で「「私小説」的なものがより確実に「真実の力」を持ちうる」ことが、英語の「I」と比較したところで日本語の「私」という語が持つ機能に起因する可能性が述べられている。このような議論を作品内で行うことは、水村の文学を偏狭な愛国主義に転落することから救い、作家的「I」を脱臼させる批評的な可能性を潜めているとNakai(2005)は示唆している。しかし、その可能性は水村の作家としての諸主張と、作品内容及び彼女が協力している自作の英訳の方法と併せて検討する必要があると考えられる。本発表ではそのような作業を通じて、リービをはじめ他の「越境作家」の文学的企図との共通性を視野に入れつつ、水村における文学と現実との間の綱渡りの意義に新たな光を当てることを目的とする。


千葉雅也「解釈と詐欺」

言語使用を人間の本質として考えた場合、そこには、詐欺(あるいは嘘)の可能性が本質的に含まれることにもなる。自然言語で書かれたテクストを解釈することには、一切の詐欺性なき真なる意味の伝達を諦めるということが伴うのであり、それが人間の倫理にとって本質的に重要である。このことに関する最近の考察をスケッチする。


矢倉喬士「意識の疲れ──2010年代アメリカ文学の諸相」

 2010年代にはスマートフォンが急速に普及し、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動や東日本大震災での救援要請において、各種SNSはコミュニケーションインフラとして大きな役割を担った。世界的に情報を送受信する感覚自体は新しいものではないが、個人が世界とつながっていてそれぞれに自前のジャーナリズムを展開しうるという感覚は、そこから生み出されるフィクション作品にも影響を与えた。2010年代に世界的に流行した文学形式を挙げるならば、まずもって作者の自伝的要素にフィクション性を織り交ぜて創作される「オートフィクション」を欠かすことはできない。状況全体を俯瞰する視点を持たず、作者個人のフィルターを通して世界を再構築するオートフィクションは、SNSを通して生み出される言葉との親和性を指摘されてきた。作家が状況全体を俯瞰せず個人のフィルターを通した言葉を発することはすなわち、文学が国家と結びついた国民文学から解放されることを意味し、アメリカ文学の文脈で言うところの「偉大なるアメリカ小説」型メガノヴェルを書く作家が減ることを意味する。また、2010年代のアメリカ文学の大きな特徴は、1960年代の公民権運動から半世紀ぶりに「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」という大きな政治的運動と共にフィクション作品が制作されたことであり、2010年代後半には #MeToo という運動もそこに加わることとなった。本発表では、2016年の大統領選を経てフィクションのあり方により一層自覚的に取り組むようになった作家・読者・批評家たちがどのようなフィクション制作と受容を行ってきたのかを、「意識の疲れ」をキーワードに考察する。

日時・場所

時間:2018年12月9日(日)13:00-17:00(聴講無料・予約不要)

場所:神戸大学文学部B132教室(視聴覚室)【会場案内】

登壇者:西橋卓也(神戸大学大学院)

    高村峰生(関西学院大学国際学部准教授)

    佐藤良明(東京大学名誉教授)

司会:大橋完太郎(神戸大学人文学研究科准教授)

コメンテーター:前川修(神戸大学文学部教授)

主催:神戸大学芸術学研究室


主旨

グローバル化に伴い、国境の流動化が加速する現代の状況下で、異文化間の接触は活発化の一途を辿っている。この状況は移動による直接的な接触にとどまるものではない。テクノロジーの発展は、身体に直接間接に働きかけるメディアを作り出し、新たな仕方での他者との接触を可能にしている。「接触」の契機自体が、「他者との接触」という根源的な欲望を保持しつつ、さまざまに変奏され、多様化してきている。

 そこで本研究会は、今日における身体と接触の美学を考えるにあたって、昨今の人類学で提唱される「コンタクト・ゾーン」という概念を掲げることを試みたい。コンタクト・ゾーンとは、異なる文化的背景を有する主体同士が非対称的な関係性を有しながら接触することで、相互に主体の変容が迫られる動態的な空間を指す。本研究会の意図は、空間的な意味合いの強かったコンタクト・ゾーンという概念を身体そのものにまで拡張し、身体を複数の接触の場として考えることにある。そこで問題となるのは、「接触」の諸相なのである。

 こうした問題を考えるにあたって、本研究会は、それ自体コンタクト・ゾーンと呼ぶことのできるアメリカ合衆国の現代文学から音楽に至るまで、人種や文化の異種混淆性に目配せをしながら広範にアメリカ文化を研究する佐藤良明氏と、アメリカやフランス、ドイツなど複数の領域に渡る「接触」と近代性について考えを進めてきた高村峰生氏をお呼びし、接触、文化、芸術をめぐる根本的な問題について議論を深めたい。


プログラム

13:00- 開会挨拶

第一部 神戸大学芸術学研究室所属の院生による研究発表

     (司会:大橋完太郎)

13:10- 西橋卓也(神戸大学人文学研究科博士課程)

13:50- 質疑応答

第二部 登壇者による研究報告

   (司会:大橋完太郎、コメンテーター:前川修、西橋卓也)

14:10- 報告1 高村峰生氏(関西学院大学国際学部准教授)

14:50- 報告2 佐藤良明氏(東京大学名誉教授)

15:30- 休憩10分

15:40- 共同討議

(17:00終了予定)


発表要旨


西橋卓也「現代アメリカ映画におけるコンタクト・ゾーンの諸相――『クラッシュ』と『マインド・シューター』における接触の表象を通じて」

 従来のコンタクト・ゾーン概念は、直接的/身体的な接触において生じる主体変容の場に焦点を当ててきた。こうしたコンタクト・ゾーンはグローバル化が進行し、デジタル技術が日常へとますます浸透していく現代においては、間接的/脱身体的な次元にまで拡張されていると言えるだろう。こうした現状を踏まえた上で、本発表では現代のアメリカ映画において人種間での「接触」がどのように表象されているのかを考えてみたい。発表では、ポール・ハギス監督『クラッシュ』(Crash, 2005)、アレックス・リベラ監督『マインド・シューター』(Sleep Dealer, 2008)の二作品を取り挙げる。『クラッシュ』は、ロサンゼルスを舞台に、交通事故をきっかけとした人種的な接触が身体的な次元で描かれるのに対し、『マインド・シューター』では、メキシコのティファナからアメリカの工事現場へと仮想空間を通じた接触が脱身体的な次元で描かれている。これら二作品の比較分析を通じて、現代アメリカ映画におけるコンタクト・ゾーンの諸相を明らかにする。


高村峰生「1920年代のホピとプエブロ――D. H. ロレンスとウィラ・キャザーの交差する時空間」

 D. H. ロレンスとウィラ・キャザーは米国南西部の原住民への強い関心を共有しており、ロレンスのニューメキシコ州タオス滞在時の1925年にキャザーは彼と彼の妻フリーダを訪問している。本発表では、両作家の1924-25年におけるホピ族やプエブロ族との接触について事実を整理し、彼らがそれらをどのように捉え、記述したかを、主としてロレンスのエッセイ“The Hopi Snake Dance”(1924)とウィラ・キャザーの小説Death Comes for the Archbishop(1927)を比較しながら検討したい。1900年前後よりすでに観光の対象となっており、アビ・ヴァールブルクやカール・ユングも研究対象とした米国南西部原住民の儀式に、二人の作家はそれぞれ西洋的価値観を相対化する意義を見出していた。このことを、1924年に制定されたプエブロ土地法や1880年代以来進められていた原住民同化政策の進展、および伝統文化保護を訴えたインディアン局長官ジョン・コリアによる政策などの時代背景と関連付けながら論じ、コンタクト・ゾーンとしてのタオスについて考察してみたい。


佐藤良明「メンフィス、フィリップス、フィフティーズ」

 第二次大戦後、ポピュラー音楽の人種的コンタクト・ゾーンとして意味深く活性化した都市として、メンフィスをとりあげる。ミシシッピ・デルタ北端に位置し、奴隷貿易と綿花輸出の中心地だった過去を持つメンフィスは、同時に黒人歓楽街ビール・ストリートを擁し、アメリカで最初に黒人向けラジオ局が起ちあがった都市でもあった。その街で、音響メディアを通し、人種間の界面に立って、カントリー/R&B/ポップの三分体制を攪乱させ、結果的にロックという未曾有の規模の音楽市場の誕生を導いた技術者サム・フィリップスとDJデューイ・フィリップスに注目し、特にサムのサン・スタジオが果たした意義を考える。だがそこで接触・混淆したものは、実は何だったのか?スタジオで実際に録音された音源の分析と、メジャー・デビュー前のエルヴィス・プレスリーをめぐる証言を通して、単なる人種接触の枠組みでは語りきれない「コンタクト・ゾーン」の多重性に思考を開いていこう。

日時・場所

時間:2018年1月27日(土)15:15-19:00(聴講無料・来聴自由)

場所:神戸大学文学部B132教室(視聴覚室)【会場案内】

登壇者:渡邉大輔(映画史研究/映像批評家、跡見学園女子大学文学部現代文化表現学科助教)

    土屋誠一(美術批評家、沖縄県立芸術大学美術工芸学部准教授、国際日本文化研究センター外来研究員)

    林玲穂(神戸大学大学院)

司会:大橋完太郎(神戸大学人文学研究科准教授)

コメンテーター:前川修(神戸大学文学部教授)

        中村紀彦(神戸大学大学院)

主催:芸術学研究会(神戸大学芸術学研究室)

共催:科学研究費補助金基盤(B)「アウタースペース/インナースペース/インタースペス・アートの美学」研究課題番号:17H02286 研究代表者:前川修


主旨

 わたしたちは今、運動性=移動性の高まりのなかに身を置いている。世界 規模で拡大する移動システム、マルチメディア上で展開する絶え間ない情報交信といった例は、そうした状況を端的に示しているだろう。現在の映像、そのひと つである写真もまた同様の状況下にある。たとえば、世界中を飛び交う観光客は、自分自身の移動だけではなく、さまざまな方法で写真を保存、編集、加工し、 それを瞬時に共有するという写真「の」移動を日々実践している。人間および写真の大規模な移動状況、さらにはそれを支えているメディア的条件の変容=移動 ――たとえば動画と静止画の境界不確定――など、写真をとりまくこうした複雑な状況を、「写真とモビリティーズ」という観点から切り出してみることもでき る。それは、写真の物理的移動ばかりではなく、写真を取り巻くメディア的、社会的状況における写真の複数の運動性=移動性の顕在化を指し示す概念になるの かもしれない。

 しかし、写真にかんする従来の議論は、こうした写真のさまざまな運動性=移動性に積極的に着目してこなかったのではないか。 本研究会は「写真とモビリティーズ」という特集テーマを掲げ、映画から写真におよぶ広範な映像実践の変容を映像圏という観点から論じる渡邉大輔氏、そして 美術批評をはじめ複数の言説の磁場における写真の問題についてクリティカルな議論を展開している土屋誠一氏をお呼びし、写真と移動性をめぐる議論を深めて いきたいと思う。


プログラム

15:15-15:20 研究会開催、開催のあいさつ

第一部 神戸大学芸術学研究室所属の院生による研究発表(司会:大橋完太郎)

15:20-16:00 林玲穂(神戸大学大学院)の発表

16:00-16:10 質疑応答

16:10-16:20 休憩

第二部 (司会:大橋完太郎、コメンテーター:前川修、中村紀彦)

16:20-16:50 渡邉氏報告

16:55-17:25 土屋氏報告

17:30-17:40 会場設営、休憩

17:40-18:45 共同討議、質疑応答

19:00    終了


問い合わせ先;芸術学研究室 中村紀彦

remakingspiderman(at)gmail.com(@に変えてください)

日時・場所

時間:2016年10月15日(土)13:00-17:00

    (聴講無料・来聴自由)

場所:神戸大学文学部B132教室(視聴覚室)【会場案内】

主催:神戸大学芸術学研究会

報告者:石岡良治(批評家/青山学院大学ほか非常勤講師)

    土居伸彰(アニメーション研究・評論/株式会社ニューディアー代表)

特定質問者:大崎智史(神戸大学大学院人文学研究科D2)

      中村紀彦(神戸大学大学院人文学研究科M2)


主旨

 ドゥルーズによる『シネマ』は、単なる映画についての哲学ではなく、映画そのものに胚胎する潜在的な哲学を開いた著作であった。ところで、映画との原理的・技術的な差異を考慮するならば、アニメーションとは、実はその誕生以来、映画とは異なる思考–イメージだと考えられるのではないか?のみならず、新たに制作され続ける個々の作品は、アニメーションのこうした潜在性を更新し続けているのではないか? 本研究会においては、前者の理論的側面について、ドゥルーズの芸術論を基盤に多様な視覚メディアを縦横に論じている批評家石岡氏から、また後者の実践的側面については、アニメーション研究者であるのならず、数々の上映企画や作家招聘に精力的に従事している土居氏からそれぞれ提題をいただき、アニメーションというメディアの存在論的潜在性を考える機会としたい。


プログラム

13:00-13:05 開会挨拶・登壇者紹介(前川修(神戸大学))

13:05-13:50 石岡氏報告「アニメ視聴の“系列化”について」

13:55-14:40 土居氏報告「“アニメーション映画”の射程を再考する」

14:45-14:55 特定質問(大崎、中村)

(休憩)

15:20-17:00 共同討議(司会:大橋完太郎(神戸大学))

      (石岡・土居・前川・大崎・中村)

 

問い合わせ先;芸術学研究室 大崎智史

dogdayafternoon22(at)gmail.com(@に変えてください)

日時・場所

時間:2015年12月12日(土)13:00-17:20(聴講無料・来聴自由)

場所:神戸大学文学部B132教室(視聴覚室)【会場案内】

主催:神戸大学芸術学研究会

報告者:居村匠、唄邦弘、細馬宏通


主旨

 音響機器、映像機器を用いたインスタレーションは、今日の美術館、ギャラリーにおいて広く見られるものである。とくに、壁やスクリーンにプロジェクターを用いて直接イメージを投影する手法は、一般的な美術展示となっているとさえ言えるかもしれない。

この投影されたイメージ(=投影像 projected images)の遍在については、2003年に『オクトーバー(October)』 誌上でラウンドテーブルが組まれている。その争点のひとつは、現在の投影像と1960,70年代のそれとの連続性をめぐるものだった。そこには一方で、投影像は展示されている物理的空間と関わっており、60年代以来の現象学的な鑑賞経験の問題を引き継いでいるとする立場があり、他方で、それは仮想的空間を作りだし、脱身体化、観者の否定に関わっているとする立場があったと言える。

 第十回神戸大学芸術学研究会は、この問題圏を引き受け、投影像と観者をめぐる思考を再開する。芸術作品においてもますます進む映像のハイレゾリューショ ン化は、人間の知覚能力の限界をとっくに超えており、展示空間において観者の有無に関わらず流され続ける超長編の映像作品は、いよいよ作品全体の把握を許さないものとなっている。見る者を置き去りにして鑑賞を拒むかのようなこうした現象は、イメージと、それと相対する観者の境位をどのように変容させているのか。果たして、投影像は、人間なしのイメージなのか。本研究会を通して、投影像に関する諸問題を検討する。


プログラム

13:00- 開会

13:10-15:30 研究発表 司会:大崎智史氏(神戸大学人文学研究科)

報告1 居村匠氏(神戸大学人文学研究科)

報告2 唄邦弘氏(京都精華大学非常勤講師)

報告3 細馬宏通氏(滋賀県立大学人間文化学部教授)

15:50- 全体討議 司会:前川修氏(神戸大学人文学研究科教授)

(17:20終了予定)


発表要旨

居村匠「ハイウェイ上のアーティスト」

 マイケル・フリードが、「芸術と客体性」(1967年)において「客体性」という語でもってミニマル・アート(=リテラリズム)を批判したことは広く知られるところである。そしてそこでは、 トニー・スミスの高速道路の逸話が、その持続的な経験のために、まさに「演劇」であると言及されていた。しかし、この啓示的なエピソードは果たして本当に演劇的なのだろうか。フリードが後に演劇性と対置する没入的性質を、そこに見いだすことはできないだろうか。

本発表は、この高速道路の体験を端緒とし、そこにこれまで十分に指摘されてこなかった没入状態があることを示すことで、高速道路という装置のもつ美的重層的地位を明らかにする。最終的に、その多義的な境位と経験が、1960年代後半、70年代の芸術経験における視覚的/身体的という二項対立を越える剰余を はらんだものであることを示す。


唄邦弘「洞窟映画と明滅するイメージ―ロバート・スミッソンによる<アンダーグラウンドシネマ>―」

 ロバート・スミッソン(Robert Smithson, 1938-1973)は、晩年のエッセイ「シネマティック・アトピア」(1972)において洞窟でのアンダーグラウンド映画の上映を計画していた。実際に 作成されることはなかったものの、スミッソンの映画に対する関心は、同時期の「スパイラル・ジェティ」(1970)とそれに伴って撮影された映画において すでに具体的に展開されていた。ユタ州のグレート・ソルト・レイクに設置された「スパイラル・ジェティ」は、それまでのモダニズムを中心とする芸術受容に 対し、美術館という制度にとらわれないサイト・スペシフィックなアートを生み出した。そうした作品が存在する「場=サイト」として制作する一方で、スミッ ソンは実際の作品と異なる視覚経験を生み出す「非・場所=ノン・サイト」としての映画を制作した。それによりスミッソンは、カメラを通した世界と現実の世 界とを区別し、サイトとノン・サイトの決定不可能な弁証法的な関係を生み出した。

 本発表の目的は、美術館あるいは映画館とは異なる洞窟という場=サイトでの映像体験が彼にとっていかなる意味を持っていたのかを当時のアンダーグラウン ド映画の登場と軌を一にする映画〈スパイラル・ジェティ〉を手がかりにとらえなおすことにある。それによって、アースワークとしてだけではなく、映画研究 の文脈でスミッソンの作品を捉えなおすことができるのではないかと考えている。


細馬宏通「プレゼンテーションの近代史―幻燈、ヴォードヴィル、弁論術―」

 美術における映像がますます長編化し 全体の把握を難しくしている一方で、ビジネスや学術発表における映像を用いたプレゼンテーションは逆に、短時間で効果的な内容伝達を競っている。 Power Pointをはじめ、KeynoteやPreziなど、用いられるツールはさまざまだが、生身の発表者が映像の前で話す点では、共通している。こうしたプ レゼンテーションのルーツとして、幻燈を用いたレクチャーやトラヴェローグ、映像とヴォードヴィルの融合、そして、20世紀前半のデール・カーネギーに代 表されるセールス・トーク、演劇、弁論術の結びつきを挙げることができるだろう。切り替わる映像の前で生身の身体が弁舌をふるうという、わたしたちが当た り前のように演じている奇妙な風習は、いかにして今の形になったのか。本発表では、アメリカにおけるプレゼンテーションの近代史を簡単に振り返りながらこの問題を再考する。

 

問い合わせ先;芸術学研究室 大崎智史

dogdayafternoon22(at)gmail.com (@に変えてください)

日時・場所

時間:2015年1月31日(土)13時~18時(聴講無料・来聴自由)

場所:神戸大学 文学部B棟1階 132号教室(視聴覚室)【会場案内】

主催:神戸大学芸術学研究会、日本記号学会


主旨

イメージを、「静止」と「運動」という側面から考えてみよう。いま やこの二つの概念は、より広く解釈されるようになっている。それは映画やアニメーションといったイメージの研究の多くが取り上げてきた、メカニズムやメ ディウムの問題だけではなく、イメージの循環といった問題にも関わってくるものなのである。本研究会では「静止/運動」という概念から出発し、イメージの あり方を多角的に議論する。


プログラム

第一部「ぎこちなさの表象」

13:00- 第一部開会

13:05- 報告1 中村紀彦氏(神戸大学人文学研究科博士課程前期課程)

13:35- 報告2 湯浅恵理子氏(神戸大学人文学研究科博士課程前期課程)

14:05- 質疑応答

司会:唄邦弘氏

第二部「イメージというヴィークル」

14:45- 第二部開会

14:50- 報告3 増田展大氏(日本学術振興会/早稲田大学)

15:30- 報告4 松谷容作氏(神戸大学)

16:10- 休憩(10分)

16:20- アレクサンダー・ザルテン氏(ハーバード大学)

17:00- コメント 渡邉大輔氏(日本大学)

17:15- 全体討議

司会:前川修氏(神戸大学)

(18:00終了予定)


発表要旨

中村紀彦「遮られるコンティニュイティ—アピチャッポン・ウィーラセタクンの諸作品における視点と物語をめぐって—」

 タイの映像作家アピチャッポン・ ウィーラセタクンの映画作品は、タイの土着的な歴史や彼自身の記憶が織り込まれた物語との連関について、多くの言及が為されてきた。 しかし、そうした従来の議論は、映画作品の前半と後半とのあいだに物語の連続性が遮断されるといった、彼の諸作品における特徴を指摘するに留まり、その遮 断によって生まれる画面そのもののあらゆる現象については十分に言及されてこなかったように思える。 

 本発表は、つながりを遮られてぎこちなさを作動させる諸映像を、とりわけ映像メディアを横断的に活動する彼の諸作品から解きほぐす試みである。その際、 物語の側面からだけではなく、映画における視点の問題を新たに導入し、アピチャッポンの映像実践を多角的に捉え直す論考の一端としたい。


湯浅恵理子「人形アニメーションのリアリティを考える—ブラザーズ・クエイ『ストリート・オブ・クロコダイル』における運動表象」

 アニメーションに関する研究は現在急速に注目を集めており、映像の「運動」を考えるための一つの大きな契機ともなっている。そうした中でも周縁にとどまる人形アニメーションは、多くの研究の対象となってきたセルアニメーションとはまた異なる運動様式を見せる。

 ブラザーズ・クエイによる『ストリート・オブ・クロコダイル』は、その独特な空間構成や撮影方法によって、数ある人形アニメーション作品の中でも独自の 「リアリティ」を構築していると考えられる。本発表は、彼らの作品を分析することで、その「リアリティ」とは一体なんであるのか、それが人形アニメーショ ンというジャンルの中でどのような位置づけをされうるのかを考察する。


増田展大「マンガとヴィークル」

 マンガというメディアをヴィークルとして考えてみたい。そこで注目すべきが「速度」という観点である。

 こういってみると、描かれた乗り物や身体についてまわる軌跡が思い出されるかもしれない。あるいは、そのイメージやコマのあいだで、わたしたち自身が視 線を動かす速度を考えることもできる。そもそも、それらを載せたページや書物という媒体そのものを、ヴィークルとして理解することも可能であるだろう。

 これら物質的な層に速度という観点から切り込むことで、マンガというメディアが引き起こす静止と運動、またはイメージと文字との緊張関係をあきらかにす ることができるのではないか。作家論や表現論として知られる議論にくわえ、コマ論や知覚論など、現在ではさまざまなアプローチが提出されている。本発表は 上記のような仮説からこれらの議論を検証し、マンガをヴィークルとして考察する試みのひとつを提示する。


松谷容作「微小重力空間におけるヴィークルとしての身体」

  ここ数年の間に、宇宙を対象とする優れた映画が立て続けに公開されている。たとえば、アルフォンソ・キュアロン監督作品『ゼロ・グラビティ』(2013) やクリストファー・ノーラン監督作品『インターステラー』(2014)などは、その代表的なものであろう。こうした作品で描き出される宇宙環境は、宇宙に 関連する様々なデータや研究、そして宇宙飛行士との対話などに基づき実現している。よって、作品は、たんに映画観客を楽しませるだけでなく、これまで蓄積 されてきたデータに基づく宇宙と人との関係についてのシミュレーションなのである。そのとき、身体は、宇宙の様々なデータを地球上にもたらすと同時にデー タそのものとなり、さらに宇宙環境での有機体の様相を視覚化するヴィークルとなる。

 本発表では、こうした静止と運動の区分が曖昧な宇宙空間におけるヴィークルとしての身体を考察する。


アレクサンダー・ザルテン「イメージ・トラフィックとゾンビ・ヴィークル」

 1960年代末に「風景論」が松田政男、足立正生などによって映画 について考える為の大切な道具になった。1970年代に入ると松田政男が別の空間的モデルとして鉄道網を使い政治運動とメディアの新しい形を考えた。 2000年代には東浩紀、濱野智史などがテーマ・パーク、アーキテクチャーなどを使いメディア社会を論じることになる。

 この発表はそういった空間的モデルから少し離れ、時間とリズムに焦点を当て、ポール・ヴィリリオの(オーディオ・ビジュアル )ヴィークル概念を現在のメディア状況に合わせてみる。ゾンビ・ヴィークルとして再考されるこの概念では、同人・自主文化、メディアと支配、そしてイメー ジ・トラフィックという問題にアプローチする試みである。



問い合わせ先;芸術学研究室 大崎智史

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